2024年11月22日( 金 )

【昭和のキーパーソン】売血から献血へと時代を変えたノンフィクション作家、故・本田靖春(中)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

ジャーナリスト 元木 昌彦 氏  

本田靖春という人物がいたことを覚えておいでだろうか。読売新聞社会部記者を経て、ノンフィクション作家として活躍。2004年に亡くなるまで数々の作品を残した。その一つ、『誘拐』を下敷きに、作家の奥田英朗氏が著した『罪の轍』をきっかけに今、静かな本田靖春ブームが起きている。読売新聞社会部記者時代に手がけた「黄色い血キャンペーン」が献血制度の確立に貢献したことでも知られる。親交のあった元木昌彦氏が読売時代の足跡を辿る。 

日雇労働者から買血、血清肝炎が大流行

 蔓延の源は、商業血液銀行と呼ばれていた買血業者の反社会性にあった。東京の山谷、大阪の釜ヶ崎の簡易旅館街に住む日雇労働者を狙って買血し、汚染された血液が病院に運ばれ輸血されて、血清肝炎が大流行したのだ。  さらに、常習売血者のほうも、血を売り過ぎてバタバタ倒れているというのである。

 本田さんは、山谷に入ろうと決意する。場所にふさわしい格好をして「ドヤ」に泊まり込むのだ。

 居酒屋で聞き込みを始めると、1カ月に24回も血を売った人間がいた。その人間は、「俺なんか少ないほうよ、多い奴では、50本から抜いてんだぜ」という。

 翌朝、教えられたところに行くと、30人ほどが列を作り、白衣を着たみすぼらしい男が来て、氏名と住所を聞いてきた。

絶筆となった自伝的
ノンフィクション

 その後、おんぼろバスに乗せられ血液バンクに連れて行かれる。本来、比重が規定より軽い血液は撥ねられる。それを「黄色い血」というのだが、見ている限り撥ねられた者はいなかったと、『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社、以下『拗ね者』)に書いている。

 買血業者は1人から1カ月に1回しか採血してはいけないことになっているが、常習売血者のうち職業売血者は、1日2カ所で血を売り渡す者も多くいた。

 多く血を抜くと貧血で昏倒する。本田さんも2度倒れたという。供血者貧血というそうだが、輸送先で輸血が行われるが、そこから抜け出して、たった今輸血された血を売りに行く者も多かったそうである。

 当時は、献血が0.5%ぐらいしかなく、後はすべて売血であったから、世界中から非難されていた。  山谷での取材を切り上げた本田さんは、血液行政を担当する厚生省薬務局細菌製剤課に乗り込むが、取り付く島もない。

 「売(買)血は、つまり、必要悪なんですよ」

 本田さんは、「今必要なのはわかるけど、悪は悪じゃないですか。どうしてそれをなくそうとしないんですか」と返す。すると厚生省の課長は、心底呆れたように口をぽかんと開いて、二の句をつごうとはしなかった。

「献血100%」をスローガンに、「黄色い血の恐怖」キャンペーン

 1962年11月16日から第二社会面で、「黄色い血の恐怖」というキャンペーンを始める。キャンペーンは3年半にわたって続けられるのだが、最初の反響は極めて悪かった。

 本田さんは、山谷という限られた場所の惨状に力点を置くあまり、売(買)血が「別世界」のことだと、読者が思ってしまったところにあったと気づく。  そこで彼は、この問題は国民一人ひとりの問題だと思ってもらうために、読者を脅すことにしたという。

 「輸血を受けた人たちの20%は、恐ろしい血清肝炎にかかるんですよ」  援軍も出て来る。東京・広尾の日赤中央病院の中にある日赤中央血液銀行の村上省三所長がそれだ。彼は「献血の鬼」と呼ばれていた。

 また別の医師から、献血は医者がカネをもらうことをやめさせなければできないといわれる。

 それは、当時、保存血液は1本(200cc)1,650円で、そのうち500円が血液代金だった。業者は1,150円から利益を上げるのだが、そのうちの100円はリベートに回されていたのだ。

 病院全体のこともあるし、開業医なら本人に渡す。そのほか、学会への旅行代や、酒食の接待など、今も製薬会社と病院、医者との癒着構造が問題になるが、当時から芽生えていたのである。

 先の村上所長は、献血一本で行くべきだと考えていた。そこで日本初の移動採血車をつくる。だが厚生省が法律をたてに、まかりならんというのだ。  そこで村上さんは、1962年の正月に、これから日赤は献血一本で行く、反対する者はすぐ辞めてもらって結構だと宣言する。

 そこから買(売)血連合との戦争が始まるのだ。中でも731部隊の残党たちがつくった日本ブラッドバンクは手ごわかった。

 劣勢だった村上さんを援護したのが、数百万という読者を持つ読売新聞の本田さんだった。中断していたキャンペーンを再開して、「献血100%」のスローガンを掲げて、目標を達成するまで戦いを止めないと決意する。

(つづく)
(文中敬称略)

<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長。現在は『インターネット報道協会』代表理事。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。

(前)
(後)

関連キーワード

関連記事