音楽に見る日本人の正体(1)『陸軍分列行進曲』(前)
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大さんのシニアリポート第91回
今年も新作を上梓する機会を得た。40年間温めてきた企画だが、上梓するにはそれなりの覚悟が必要だった。歴史的に定説として承認された事象に対して、「NO」を突きつける行為には勇気が要る。それも今から77年前の話のため、世間一般では忘れ去られても仕方のない出来事かもしれない。しかし、筆者はそうした歴史上の「嘘」(あるいは思い込み)に対して看過することができなかった。
1943年10月21日、小雨に煙る明治神宮外苑競技場(現・新国立競技場)で挙行された「出陣学徒壮行会」。ここで演奏された行進曲は、実は日本人が作曲したものではなく、フランス人音楽家シャルル・ルルーが深く関わった作品だった。当時フランスは敵国であり、敵国の音楽(敵性音楽)を演奏するのは問題が大きいと判断した当局は、壮行会当日、作曲者のルルーの名前を伏せて演奏した。
この「事実」当時から関係者の間で密やかに、どことなく後ろめたさを感じながら伝えられてはいたが、誰もそれを公表しないまま、77年という時間だけが流れた。「出陣学徒を、敵国の音楽で戦場に送る」という事実は、とても容認できる話ではない。大衆音楽研究家の重鎮、長田暁二が『日本軍歌全集』(音楽之友社、1976年)で、「第二次世界大戦中の昭和18年に、内閣情報局が敵性国家の音楽一掃を命じたとき、アメリカやイギリスはもちろんのこと、昔は日本陸軍に奉職していた楽長とはいっても、フランス人ルルーの作曲も対象になるはずですが、陸軍の象徴たる『分列行進曲』が消滅しては困るので、作曲者名を伏せて堂々と演奏しました」と証言する。
シャルル・ルルーは1884年、第3次フランス軍事顧問団の一員として来日する。明治政府が陸海軍楽隊の育成のために招聘した、いわゆる「お雇い外国人音楽家」の1人である。日本の近代音楽の普及に貢献したとして、「勲4等瑞宝章」と「勲5等旭日章」を授与されており、日本陸軍音楽隊の向上のために身を捧げた音楽家であることは間違いない。しかし、このことと、ルルーが作曲(関与)した行進曲で出陣学徒を戦場に送ることとは別ものだ。
1943年当時で、日本人が作曲した行進曲は一説では3,000曲あるともいわれていた。このなかに「出陣学徒を送るに相応しい行進曲」があったのなら、問題なくその曲が採用されたことだろう。しかし、シャルル・ルルーが作曲(関与)したこの曲を凌駕する行進曲は皆無であり、それほどまでに、曲の構成もクオリティも圧倒的に優れていた。先ほどから行進曲の曲名を明記せずに、シャルル・ルルーが「関与した」という曖昧な表現をしなくてはならなかったのには、大きな理由がある。
(つづく)
*『陸軍分列行進曲』はYouTubeで視聴できる。
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』(平凡社新書)など。関連キーワード
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