2024年11月17日( 日 )

音楽に見る日本人の正体(1)『陸軍分列行進曲』(中)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

大さんのシニアリポート第91回

 今年も新作を上梓する機会を得た。40年間温めてきた企画だが、上梓するにはそれなりの覚悟が必要だった。歴史的に定説として承認された事象に対して、「NO」を突きつける行為には勇気が要る。それも今から77年前の話のため、世間一般では忘れ去られても仕方のない出来事かもしれない。しかし、筆者はそうした歴史上の「嘘」(あるいは思い込み)に対して看過することができなかった。

 シャルル・ルルーは1885年に、『抜刀隊』という軍歌を、翌年には『扶桑歌』という行進曲(風)を作曲した。『扶桑歌』はとくに明治天皇に献呈された。日本陸軍軍楽隊の基礎を固め終えたルルーは、1888年にフランスに帰国した。すると、ルルーの帰国を待ちかねたように、ある日本人が動きはじめたのである。すなわち、ルルーの『抜刀隊』と『扶桑歌』を1つにまとめた、まったく新しい行進曲を模索しはじめたのだ。ある日本人とは、おそらく陸軍軍楽隊の関係者(陸軍省を含めた)と推測している。

 紆余曲折を経たその行進曲は、1902年に完成してすぐさま陸軍省の採用するところとなり、正式に陸軍省認定の音楽となった。問題は、新しくつくり上げた(作曲でも編曲でもない)行進曲にどうタイトル名を付けるかということであった。「紆余曲折」と表現したのは、曲のイントロ(導入部)とコーダ(終結部)を『扶桑歌』から取り、トリオ(中間部)は『抜刀隊』の旋律をそのまま使用するという見事なまでの「サンドイッチ方式」という苦肉の策を弄していたからだ。

 さて、出来上がった曲のタイトルをどうするかと考えた。曲の大半を『抜刀隊』の旋律が占めているのだから、『抜刀隊』とする案。いや、明治天皇に献呈された名誉ある曲だから『扶桑歌』とする案。2つの曲名ともそれぞれ実際に存在するのだから新しい曲名として『分列行進曲』、『観閲式分列行進曲』にすべきだと主張する人たちもいて、さまざまな曲名が提案された。ところが陸軍省は、最終的に曲名を1つに決めることができなかった。これがのちのち混乱を引き起こす原因となった。

 『抜刀隊』という曲は、1877年3月14日早朝、西南戦争における最大の激戦地、田原坂(熊本県)で西郷軍を撃破した警視庁の主力白兵戦部隊の名が「抜刀隊」であったことに由来している。1882年、東京帝国大学教授の外山正一が『新体詩抄』(外山ら共編)に「抜刀隊の詩」と題して発表していた。シャルル・ルルーはこれに曲をつけ、同名の『抜刀隊』というタイトルで発表した。これは日本で初めての「軍歌」といわれている。

 『抜刀隊』は発表されるやいなや、世の注目を集めてまたたくまに全国に広まった。『抜刀隊』のコーダ(終結部)は転調されている。日本人のなかに「転調」を知る作曲家が皆無だったためか、転調は当時、日本人には馴染まないといわれていた。確かに、『抜刀隊』のコーダの部分は「平行移調(転調)」(たとえばイ短調→イ長調のように)されている。通常は、転調は曲想の劇的な変化という効果をもたらすため、西洋音楽を聞いたこともない当時の日本人には、奇異に聞こえたことだろう。しかし、何度も聴くうちに聞き慣れていくものである。

(つづく)

*『陸軍分列行進曲』はYouTubeで視聴できる。

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』(平凡社新書)など。

(第91回・前)
(第91回・後)

関連記事