【凡学一生の優しい法律学】アメリカ大統領選の見方(2)
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バイデンは、民主主義の基本理念の1つが他人への尊敬にあることを国民に訴えた。しかし、民主主義にはもう1つの重要な理念があると口に出していうことはできなかった。その理念とは他人に対する猜疑心であり、アメリカの市民社会には確固たる事実としてすでに存在しており、それでもある。アメリカが権力分散の政治形態である合衆国であることや銃社会であることが、その現象的な証拠である。
前回に述べたジェロームフランクはその思想を徹底的に透徹し、法の実践が法律要件の科学的事実の認定と、論理的正当性としての法の適用すら否定するという極限の理論を展開した。
つまり、判決は法と事実認定の結果ではなく、裁判官への刺激と裁判官の個性が産み出すものとした。裁判官と同じく法の支配に従うべき行政官、つまり総理大臣に当てはめると、政治的判断がまさに法と正義にしたがうものではなく、個人の利益意識と個性によるものであると実感できるため、ジェロームフランクの理論が普遍性をもってアメリカ国民に受け入れられたこともうなずける。
1. 民主主義と法治主義の乖離
日本には、1945年まで民主主義の思想は存在しなかったように思える。しかし、少なくとも憲法以下の膨大な法律(主として勅令)群が存在したため、法治主義であったと教科書には記載されているが、ここに日本国家の政治的歴史における重大な虚偽と隠蔽が存在する。そのことを如実に表しているのが、日本の法律学である。
大学での法学教育では、法学概論から始まり憲法、民法、刑法と進むが、民事訴訟法や刑事訴訟法となると、実体法と手続法という法律学の概念が登場し、実体法優位の学問体系が姿を現す。
さらに公法と私法という奇妙な概念区分のため、公法の行政法にはもっとも多くの法律群が含まれるにもかかわらず、ほぼ「選択科目」として学ぶのみである。これを見事に反映しているのが、司法試験にほかならない。
司法試験は法律家の登竜門であるため、受験生は真剣に勉強するが、受験科目についての大局観は合格能力とは無縁のため、誰も教えない。日本の弁護士の大部分が行政法領域・公法の知識がない(受験科目ではマイナーであり、大部分は除外されている)のは、この法学教育と司法試験がもたらす当然の結果である。
以上を俯瞰して極論をいえば、日本の法律学は「民法」法律学である。法律学は本来、極めて政治的な紛争を内包する(公法領域)。しかし、日本の法律学は政治的紛争を回避し、民事的紛争に特化して発達してきたと断言できる。明治憲法下では法律学であっても天皇の親政に奉仕すべきものであったため、当然の結果であった。
(つづく)
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