2024年12月22日( 日 )

【企業研究】鹿島の創業家物語 女系家族への大政奉還は「ジ・エンド」(前)

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 春は上場企業のトップ交代の季節である。注目されるのがスーパーゼネコンの鹿島。重要な意志決定や幹部人事で大きな影響力をもつのは、本家の鹿島家、分家の渥美家、石川家、平泉家から成る創業一族だ。先日発表されたトップ人事は、今年も創業家への「大政奉還」を見送った。5代続けて非同族出身者が社長を務めることになる。そこには、本家と分家の確執がありそうだ。

創業一族の渥美直紀副社長が退任

 鹿島建設(株)(以下、鹿島)は3月9日、押味至一社長(72)が代表権のある会長に就き、後任に天野裕正副社長執行役員(69)が昇格するトップ人事を発表した。6月25日の株主総会後に就任する予定で、社長交代は6年ぶり。

 天野氏は同社の中核である建築部門の出身。東京五輪関連の工事の一巡や新型コロナウイルスの影響で、建設需要は停滞が見込まれるなか、国内建築工事の受注を増やし、収益拡大を目指す。

 首脳人事の最大のサプライズは、創業一族の渥美直紀・代表取締役副社長執行役員(71)が相談役に退くこと。かれこれ20年余り、次期社長の本命と目されてきたが、社長になれないまま、ひっそりと去る。

 本家の鹿島昭一・取締役相談役は昨年11月4日、90歳で亡くなった。分家の渥美氏も退く。創業一族の役員は、分家の石川洋・副社長執行役員営業本部長(62)と、平泉信之・取締役(63)の2人だけとなる。

 鹿島の首脳人事をめぐって、建設専門紙・日刊建設通信新聞社のニュースサイト(3月12日付)が報じた「記者座談会」に目が止まった。押味社長が創業家に触れた部分が印象的だった。

 「当社は181年の歴史がある。幾多の人が鹿島の伝統を引き継いで今日に至った。仕事にこだわりをもって物事を合理的に考えて社会に貢献する、という大前提を(創業家から)教わった。そのDNAをずっと引き継いで、次の代に伝えたいと思うのは当然だ。(中略)DNAをつなぐという意味では創業家を重く見ている。とくに拠りどころの鹿島昭一氏が亡くなったため、なおさら重要な課題としてDNAを伝えていくのが、我々の仕事の一部ではないか」。

 非常に含みのある言い方で、創業家への強い思いを感じさせた。押味社長の発言は「やはり」と得心がいった。創業家とは本家の鹿島家であって、分家の渥美家、石川家、小泉家ではない。本家の鹿島昭一氏の意向は大事にする。当然、首脳人事にも反映される。世襲を嫌う昭一氏の遺志を尊重すれば、分家の人物を社長に据えることはあり得ないということだ。

鹿島は女系家族

 鹿島は女系家族である。政官財界のトップ層の人脈ネットワークで、鹿島家ほど広く、深く、根を張った一族は類を見ない。最後にはキングメーカにまでなった中曽根康弘・元首相と結びついた。鹿島家が壮大な政経閨閥(けいばつ)をつくり上げたのは、3代にわたる婿取り作戦の成果である。

 鹿島は1840年、鹿島岩吉氏が江戸中橋正木町(現在の京橋)で「大岩」を創業したのが始まり。幕末に横浜に進出、外国商館など洋風建築を手がけ「洋風の鹿島」とうたわれた。

 2代目を継いだ息子の岩蔵氏は、全国に延びる鉄道建設の波に乗って「鉄道の鹿島」の名を広め、今日の基礎を築いた。

 岩蔵氏は男子に恵まれなかった。ここから、鹿島家の婿取り作戦が展開される。鹿島家の婿取りで共通しているのは、いずれも名家で、東大出のエリート官僚を迎え入れることだ。

 最初の娘婿は葛西精一氏。東京帝国大学工学部を卒業、逓信省鉄道局の官僚。岩蔵氏の長女と結婚して婿養子となった。1912年、鹿島組の3代目組長となる。

 ところが、彼も嫡男に恵まれなかった。そこで、白羽の矢が立ったのが、当時、少壮の外交官だった永富守之助氏である。

精一氏と守之助氏の船中での出会い

 精一氏と守之助氏が出会った有名なエピソードがある。

 東京帝大法学部政治学科を卒業後、外務省に入った守之助氏は1922年5月、ベルリンの日本大使館駐在の辞令をもらい、米国経由で欧州に向かう。ニューヨークでベリンガリヤ号に乗り、デッキから自由の女神を眺めていると、肩をたたかれた。振り向くと、鹿島組の鹿島精一組長と永淵清介取締役である。乗客の日本人は3人だけ。すぐに打ち解け、15日あまりの船旅を楽しんだ。

 この航海で、精一氏は守之助氏を鹿島組の未来を託す男と見込んだようだ。3年間のドイツ勤務を経て本省に戻ってきた守之助氏に、鹿島組の永淵氏が精一氏の長女・卯女(うめ)氏との縁談を持ち込んだ。守之助氏は婿養子になる気はなく、断った。永渕氏は断られても、説得を続けた。守之助氏は永淵氏に結婚の条件を出した。

 「私は将来、政治家になりたい。そのときは政治資金を出していただけますか」。

 縁談を破談にするための無理難題だったが、永淵氏は「結構です」と応じた。それでも、守之助氏はライフワークである外交史と国際政治の研究を捨てる気にはなれなかった。永淵氏は「結婚後も鹿島の仕事をしなくてもいい」という条件を出して、ようやく見合いに漕ぎ着けた。ところが会った途端、守之助氏のほうが卯女氏に一目惚れしてしまう。

(つづく)

【森村 和男】

(中)

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