2024年11月23日( 土 )

【創業30周年】(株)高太~「人との出会いは宝物」高尾平八郎会長、自らの半生を語る(3)

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 建設資材販売などを手がける(株)高太(佐賀市)は今年で設立30周年を迎えた。同社の高尾平八郎会長に自らの半生を振り返ってもらった。

営業マンとしての能力が開花

高尾 平八郎 氏

 入社後、先輩の喜瀬氏と松原ダムの現場に赴き、引き継ぎのための挨拶を行った。宿舎は大成建設の社員と同じプレハブの一室。仕事内容はこうだ。八幡化学(北九州市戸畑区)の高炉セメントが1日にトラック10台ほど、約1時間おきに到着し、100t以上が納入される。その到着時に1台1台、計量器で重量を測り、セメントの荷下ろし後に再度計量、納入データを集計して大成建設に報告するというものだった。このほか、納品計画の打ち合わせや出荷指示も行った。

 日田市出身の高尾氏は同市内に高校時代の友人がたくさんいて、夜になると日田の街に繰り出していた。当時のダンスホールは若者が集まり、とても賑やかで、若い女性と出会う機会も多かった。

 松原ダムでの勤務が4~5カ月経過したある日、大成建設の事務所に高尾氏宛の電話がかかってきた。その後、本社から担当課長・坂根氏が呼びつけられた。翌日、高尾氏も本社に呼び出され、「会社を辞めてくれ」と言われた。高尾氏は「ここで辞めるわけにはいかない」と思い、涙ながらに謝罪。事なきを得たという。

 数日後、本社に戻り、セメント課の坂根課長の下で働くことになった。福岡市東区八田にある八幡生コンの工場で、現場納入時のデリバリー担当となった高尾氏。生コンの納入日には朝の1台目のトラック到着から生コンの打ち込みが終わるまで、道路から現場投入口まで生コン車を誘導し、ポンプ車(圧送車)がないときは、生コン車のホッパーから一輪車で受け取り、打ち込み作業を行った。型枠のなかに生コンを入れて、バイブレーターで打ち込む作業には、多くの作業員が必要だった。生コン車の到着が遅れると作業員は手が空くため、下請の親方から何度も怒られたことを覚えているという。

 高尾氏が経験したなかで、大きかった現場は西公園の下水処理場、全日空ホテル、博多駅前ビル、西鉄グランドホテル、タカクラホテル、中洲の東急ホテルだった。

 現場の立ち会いがないときは、飯田産業の知名度を生かして営業もした。当時の吉川工務店の社長や専務には、とてもかわいがってもらったという。花田組(後の花田建設)、内藤工務店から市営住宅の建設に使用する生コンを受注するなど、徐々に営業マンとしての能力を開花させていった。八千代工務店が福岡銀行の支店新築にともなう生コンを受注したため、現場納入に立ち会ったとき、若い元気な社員がいた。これが手島建築設計事務所の会長・手島氏との出会いだった。

 子どものころから西鉄ライオンズの大ファンだった高尾氏は、試合のある日は必ずといっていいほど、平和台球場に足を運んだ。当時は「黒い霧事件」により、稀代の名投手・池永正明氏が永久追放となり、西鉄ライオンズが球団存続の危機に立たされていた時期だ。観客は少なく、寒くなり始める10月には数えるほどの観客しかいなかったという。毎試合、1塁側ベンチの上で旗を振り、笛による応援を行っていた河部さんと出会ったのはそのころで、高尾氏も気づけば河部さんと一緒に旗を振って応援するようになっていた。

 ちょうどこの時期、トップ営業マンだった坂根課長が、飯田産業が数年前に買収した大分県別府市にあるツルミ生コンの社長に就任。仕事のやり方などいろいろ教えてくれた先輩だっただけに、大変残念だったそうだ。

(つづく)

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