三菱自動車がまたもや不正、日本の製造業が溶解していく(後)
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外資導入をテコに誕生
三菱自動車工業(株)(以下、三菱自動車)は、1970(昭和45)年4月に三菱重工業(株)(以下、三菱重工)の自動車部門が分離・独立してスタートした。三菱財閥の創業100年事業として、グループ内に自動車会社をつくったのである。
三菱グループの自動車生産の歴史は、旧三菱造船(三菱重工の前身)が1917(大正6)年に作った国産初の乗用車「三菱A型」にまでさかのぼる。自動車会社としての歴史は、欧米のメーカーに比べても遜色はない。だが、三菱重工の一部門であったため、トラック、バスなどの商用車メーカーの性格が強く残り、乗用車では決定的に出遅れた。
トヨタ自動車(株)、日産自動車(株)の牙城を、どうすれば崩せるか――。69年に三菱重工社長に就任した牧田與一郎氏は、大きな賭けに出た。米ビッグスリーとの提携である。三菱自動車が産声を上げた翌71年に、米クライスラーが15%資本参加した。外資導入をテコにした自動車会社の誕生は、三菱が最初である。
三菱グループが「バイ三菱」で支援
三菱自動車は、三菱グループが丸抱えした。御三家である三菱重工は研究・開発、三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)は資金、三菱商事は海外展開を担った。顧客はオール三菱である。
三菱グループ企業の社員は「バイ三菱」と称して三菱車を優先的に購入した。「バイ三菱」とは、三菱各社が率先して三菱グループの製品を買うことだ。三菱グループ企業のパーティでは、キリンビール以外のビールは絶対に出されない。
三菱グループの社長会である金曜会だけで29社。その関連会社や取引先まで含めれば約10万社。これらの企業と社員が、三菱自動車のユーザーである。最高級車「デボネア」(1999年まで生産)は、三菱グループ企業の本社が集中する東京・丸の内の三菱村でしか走っていない重役専用車だった。三菱自動車から新型車が発売される際には、グループ社員限定の事前発表会が行われた。一昔前までは、スリーダイヤ企業の社宅の駐車場には、三菱車以外の車は駐車できないという暗黙の約束があった。
トラックの主なユーザーは、三菱グループの工場や取引先。乗用車はグループの社員が買ってくれる。営業努力しなくても、毎年一定の売上が確保できた。三菱グループに“おんぶにだっこ”だから、グループ企業にだけ顔を向けていれば何とかなるという、内向きの経営体質になってしまった。「三菱グループの天皇」相川賢太郎氏の「燃費なんか誰も気にしていない」という発言は、「バイ三菱」でしか通用しない内向きの理屈だ。三菱自動車は大衆車に進出するまで、一般ユーザー向けの商売をやったことがなかった。ユーザー軽視は、三菱自動車のDNAなのだ。
一時的に終わった世界の工場
沈んでいくのは、三菱自動車だけではない。不正会計の東芝しかり、台湾の企業に身売りしたシャープしかりだ。なぜ、日本の製造業は溶解したのか――。
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、1979年に米社会学者でハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲル氏が、日本について評価した著書だ。日本的経営によって高度成長がもたらされたことを賞賛し、日本の時代が訪れると予言した。
70年代は、ものづくりの力によって「メイド・イン・ジャパン」が世界的に評価され、世界一へと駆け上がろうとしていた。ヴォーゲル教授が予言したように、日本経済は80年代に黄金期を迎える。自動車産業の繁栄は、日本経済が世界の頂点を極めつつあったことを象徴する出来事だった。日本は「世界の工場」になったのである。19世紀、産業革命によって最先進工業国となった英国は、一国で世界の工業生産額の半分を占め「世界の工場」と呼ばれた。20世紀には、米国が世界の工場になった。日本は70年代から80年代が世界の工場だった。日本経済の黄金期と重なる。
21世紀初頭からは、中国が世界の工場だ。今、世界の工場は、東南アジアに移りつつある。要因は人件費の上昇だ。低賃金を求めて、世界の工場は移動していくものだ。世界の工場でなくなったとき、どうなるか――。ものづくりの力が衰退していく。世界の自動車業界に君臨してきたゼネラル・モーターズ(GM)の経営破綻は、その象徴だ。世界の工場の地位を失った日本の製造業は、ものづくりの力が弱まり、沈んでいく。三菱自動車、東芝、シャープが崩落した、最大の要因だ。
(了)
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