『パナマ文書』を超える、山形をめぐる三篇(2)~上杉の歴史資産を永く継承する米沢市
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【パナマ文書】で隠された金額の桁違いさには驚く。ケイマン諸島だけでも日本企業・日本人が隠してある資金が60兆円と公にされた。他地区の分も含めると100兆円に達するのではないか!!「個人・企業の預金シフトが100兆円か?」とかつて指摘したことがある。それ以上に衝撃な数字が突きつけられた。「全世界の秘匿された金額は8,000兆円かも」と、【パナマ文書】から推定されている(アメリカ合衆国国民総生産額のおよそ4.2倍)。
「カネ、カネ」と騒ぎ立てる気持ちはわかる。金は大切だ。1億円程度なら執着することには頷ける。ところが1兆単位で目の色変えて隠す気持ちには反吐が吐きたくなる。死んだならばその所有者は一瞬にして忘れ去られる。虚しいものだ。この金銭市場に嫌気がさして5月連休に山形県内を散策した。目的は山形には金銭とは関係なくその人の功労を200、300、400年と語り続けられた地域に触れあうことであった。精神的癒しである。県内には数多くある。歴史遺産無数の山形をめぐる三篇を紹介してみよう。
上杉景勝の偉大さをあらためて認識する
山形県の最高の小説家・藤沢周平は短期間で数多くの小説作品を残した。【鶴岡と藤沢周平】に関しては、このシリーズの第3回で触れる。この藤沢周平の作品のなかでは異色であるダイナミックなストーリーの『密謀』という小説がある。石田三成と上杉景勝が組んで西と東から徳川勢を挟み撃ちにする謀略を描いた小説であるが、速い展開で進む。三成が予定よりも早く関ヶ原合戦を始めたことでこの密謀は敢え無く失敗に終わった。徳川勢が圧倒したのではない。真相は徳川勢が、辛くも勝利を手にしただけなのだ。
義父・上杉謙信は「軍神」と祭られている偉大な武将。そのことを否定する者はいない。しかし、比較は困難だが、筆者は指導者としての能力は景勝のほうがはるかに上手(うわて)であると読む。謙信自身には全国制覇の野望がなかった。現在の新潟県=越後を中心に領土を固める戦略であったのだが、夢を実現できないままあの世へ旅立った。景勝は長男・景虎との跡目相続の激闘に勝利し、謙信の跡を継いだ。
「越後を掌握した」と気を緩められるかと思っていた矢先、天下制圧の野望に燃えていた織田勢が領土内に攻撃をかけてきた。「景勝危うし」。追い込められた最大の危機にあって、信長が本能寺の変で命を失った。おかげでピンチから抜け出ることができた。そこで景勝が勉強したことは「京都の中央政治状況を的確に把握しないと上杉家を守ることができない」ということである。「次の政権者は豊臣秀吉」と定めた景勝は、秀吉との関係を密にする策を講じた。そこで秀吉の側近・石田三成とも緊密な信頼関係が樹立されたのである。
景勝への秀吉の信頼は絶大なものとなった。「家康は油断ならぬ」と危惧した秀吉は景勝に、会津若松120万石の大大名として渡封を命じた。対家康、東北統治の尖兵役を託したのである。秀吉亡き後、家康の天下取りの動きは迅速であった。「家康の野望を許すものか!!」と、景勝は三成と同盟を結んで反家康連合を結成した。景勝には、秀吉から受けた恩を返すという義理堅い一面がある。
徳川側との初戦で先手を取ったのは景勝側であった。「三成軍を動かす」という一報が伝わると家康は軍の撤退を始めた。小説『密謀』の最後の項において撤退する徳川軍に対して「殿(景勝)は何故、追い打ちをかけないのか」と直江兼続(景勝の最大の幹部)が嘆くシーンがある。景勝のねらいが何であったのかは定かではない。だがこれだけの大胆な家康に対する包囲網を敷く胆力には兜を脱ぎたくなる。謙信の器量の数倍の持主という感じもする。
当然、家康の上杉景勝に対しての怒りの念は凄まじいものであったことは想像できる。敗戦処理として上杉家を改易する道もあった。だが家康は景勝を活かす道を選んだ。1601年8月に米沢30万石として国替えを命じた。米沢は元来、伊達家によって治められていた。そこへ颯爽と越後の雄・上杉軍団が移流してきたのである。景勝は潔かった。改易から免れたことへの恩義を忘れずに家康に忠誠の意を示し行動もした。景勝死して400年。いまでも、地元米沢市の方々は上杉神社で熱烈に景勝を祭っているのである。胆力ある米沢市民へ植えつけた【胆力】は、景勝の残した最大の遺産といえる。
(つづく)
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