2024年11月23日( 土 )

旅の本質に見え隠れするもの(後)

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 コロナ禍で「利他(りた)」(自分を犠牲にしても他人の利益を図ること)について考えてみた。運営する「サロン幸福亭ぐるり」(以下、「ぐるり」)も地域の高齢者のための居場所である。一定程度の公的な援助や入亭料はあるものの、不足分は自分で負担している。何もそこまでして地域住民のために…、と思うこともあるが、「公的な機関がやってくれないなら自分でやってしまえ」と勝手にはじめたのだから、文句をいえる筋合いのものでもない。ただ、与えられることに慣れている住民には、筆者の真意は伝わりにくい。その1つが「金(きん)力より筋(きん)力」ということだ。

自分の足で歩くことが基本だった

「サロン幸福亭ぐるり」の入り口と幟
「サロン幸福亭ぐるり」の入り口と幟

 明治期以前の旅は馬や駕籠を利用するという方法もあったが、自分の足で歩くことが基本だった。旅とは、「住む土地を離れて、一時ほかの土地に行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて『たび』と言った」(広辞苑)とある。現在では「旅」という言葉は死語になり、もっぱら「旅行」という言葉にすり替えられた。

 しかし、「旅」という文字には、「旅人」「長旅」「旅路」「旅商い」「旅立ち」「死出の旅路」「旅烏」「旅芸人(役者)」「旅衣」「旅支度」「旅装束」「旅日記」「旅の空」「旅回り」「旅は情け、人は心」「旅は道連(みちづれ)世は情け」「旅の恥は…」など、人間が生きていくことに深く関わるさまざまな要素が込められている。旅には好いた相手との逃避行、伊勢神宮詣での旅、名所旧跡巡りの旅、物見遊山の旅、湯治場への旅なども含まれる。

商売をするために旅に出る

 筆者が今回指摘したい旅とは、「商売」という意味が込められた旅である。松尾芭蕉と河合曽良との旅は、『奥の細道』という俳諧紀行として名高い。一見、風流な旅にも聞こえる。実際、『奥の細道』に、「風流の初めやおくの田植うた」という一句もあるほどだ。しかし、実際には芭蕉門人らへの指導料授受を目的とした旅であった。名をなした俳人が門人から指導料を得ることに何ら問題はない。

 『放浪記』は林芙美子の代表作である。小説では、広島県尾道に移り住むまでの1年半、幼い芙美子が義父と母に連れられて九州一円を転々と旅し、石炭産業で栄えていた福岡県直方に落ち着き、そこであんパンを売っていた時期があった。「あんパンを売りさばくと、多賀神社へ遊びに行き、馬の銅像に祈った。『いいことがありますように』」。

山形名物「芋煮会」に集う来亭者ら
山形名物「芋煮会」に集う来亭者ら

 林は、直方を「砂で漉(こ)した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった」「門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女の人が美しい町でもなかった」と作品のなかでこう表現した。直方市民にとって、あまり気分のいい話ではないだろう。「林芙美子文学碑建立」の話が出たときにも、市の関係者から、「直方市を侮辱(悪口)した人の建立は如何なものか」という注文がついた。

 東京都新宿区立林芙美子記念館の佐藤泉学芸員によると、芙美子が貧しかったのは直方で生活した2年間ほどだった。「逆境にくじけない強さと、青春を過ごし恋を覚えた尾道を際立たせるために、直方での貧しさを盛った」のではないか。芙美子には「話が面白ければいい」という考えがあった。『放浪記』はノンフィクション・ノベルの形式で書かれている。事実と違う部分があってもおかしくない。芙美子は出生を下関市としているが、実際には北九州市門司区らしい。作家自身の素顔を韜晦(とうかい)(晦(くら)ます)することはよくある話である。(林芙美子の記事は『朝日新聞2019年12月14日〈be〉』「みちものがたり」を参考)

自分の足で歩き、顔を売り、薬も売った富山の薬売り

 商売をするために旅に出る。生きるために旅に出るのである。越中富山の薬売りは、1600年代末期、越中富山藩の2代目藩主の前田正甫(まさとし)が藩の財政立て直しのために始めた。

 越中八尾は、「風の盆」(毎年9月1日~3日)として有名であるが、この土地は富山の売薬を包む上質の紙の生産地として知られている。この売薬は「置き薬(配置薬)」として急成長を遂げた。その理由は、「『先用後(せんようこう)利(り)』という商法がヒットしたからだ。各家庭に無料で置き、次に訪問したときに、使った分だけ料金を回収する、という方式。『流通事情が悪い江戸時代、庶民にとっては利便性が高かった』」(「朝日新聞 〈be〉」 2021年5月1日)。その背景をなしていたのが、「信用」である。しっかりとした藩の後ろ盾がある「売薬さん」だから、どの家庭も信用したのだ。

 こうして1876(明治9)年には全国組織としての「配置薬共同出資」の会社を設立、全国展開した。富山県くすり政策課によると、「県の配置従業者数は1961年に1万1,685人いたのが、2019年には597人に減った」(同)。

 1年中全国を旅して歩く売薬さんの得意先がメモされた手帳が廃業時、某企業に1,000万円超で買い求められたという話を記憶している。今以上に情報に飢えていた時代には、最高の個人情報源だった。当時の売薬人は得意先を開拓するために、全国くまなく歩いて掘り起こした。地道に自分の足で歩き、顔を売り、薬も売った。ついでに紙風船や売薬版図などの文化も運んだ。このFace to Face(フェイス・トゥ・フェイス)という精神こそ、最も必要とされた武器である。「信用」はデジタル化では生まれにくい。商売は利他という考え方から生まれる。「利他」をなくしては「利己」すら危うい。

(了)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』(平凡社新書)『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』(同)など。

(第101回・前)

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