さらば、新自由主義~2度目の「焼け野原」から立ち上がるために(5)
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ライター 黒川 晶
「フェア」の理念
日本だけでなく、新自由主義を導入した先進資本主義諸国はことごとく、豊かな社会を実現するどころか不正と貧困の蔓延する不幸な分断社会に堕している。しかも、肝心の「世界大戦」でも新興諸国に押され、圧倒的な強さを誇ったかつての面影はもはやない。
そもそもが、「レッセ・フェール(市場の自由放任)」や貨幣数量説といった、はるか昔に妥当性を否定され打ち捨てられた経済理論を寄せ集め、焼き直したようなテーゼである。目下の危機を脱することには功を奏しても、ほどなく出現するのは、資本主義のユートピアどころか、いつの時代の話かと思わせるような弱肉強食の殺伐であろうとは容易に想像できることだった。にもかかわらず、先進諸国の人々が、それこそ国のリーダーから企業人、知識人、一般大衆に至るまで、さしたる抵抗もなくこれを国のイデオロギーとして受け入れたり、受け入れざるを得なかったりしたのは、新自由主義が極めて直截な「フェア」のかたちを提示したためである。
繰り返すように、新自由主義者の思想的原点は「個人の自由」、とくに「個人の経済的自由」の擁護である。彼らにとって、これが国家権力による制約を受ける理由はなく、ましてや他者の権利保護のために足枷をはめられるなど「フェア」ではない。というのも、彼らの理屈では、技術革新を生ぜしめ富を創出する決定的な役割をはたすのは民間企業や企業家のイニシアティブであるが、人々は労働報酬の増加や生活水準の向上といったかたちで、広くその恩恵に与る――「富は上層から下層へ滴り落ちる(トリクルダウン)」――ためである。「フォーディズム」の彼らなりのイメージを表したものと思われるが、実際、ケインズ主義的福祉国家のもとで実現された、労使協調体制の恩恵を受けてきた多くの人々は、この言い分をもっともなものと受け止めた。
市場を「交換の場」としてではなく「競技場」のように提示することもまた、多くの人々に、新自由主義が「フェア」な社会を提供すると思わせることに貢献した。個人であれ企業であれ、あらゆる経済主体=プレーヤーは、競争があるからこそ自分の能力=商品価値を高め、効率と生産性を上げる努力をする。市場はそうしたプレーヤー同士がルールに基づいて競い合う場であり、収入は努力に対する正当な対価である、というわけである。ここから、失敗についてはプレーヤーが十分な努力を怠った、あるいは、そもそもプレーヤーとしての資質に欠けていたせいであるという命題――「自己責任論」――が導き出された。
それはまた、福祉や教育、医療、年金といった、本質的に市場とは異なる領域にも敷衍された。そうしたサービスは、各人がそれまでに積み重ねてきた努力の正当な対価である。逆に、収入を得られない状況に陥ったのは自分への投資あるいはリスクマネジメントを怠った結果である。にもかかわらず福祉サービスの受給者となることは、他人の努力に「タダ乗り(フリーライド)」することに他ならず、「フェア」ではない、と。このようにして新自由主義者の主張は受け入れられた。そして、あくまで「民主的」に、「自由競争」社会と「小さな政府」への転換が行われたのだった。
(つづく)
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