2024年11月24日( 日 )

さらば、新自由主義~2度目の「焼け野原」から立ち上がるために(6)

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ライター 黒川 晶

「自由競争」の罠

 しかし、少なからぬ人々がすでに見抜いていたように、新自由主義の「フェア」の論理は、前提からしてすでに間違っている、あるいは欺瞞に満ちたものである。

 新自由主義は、ポテンシャルを高めて富を創出する原動力になるとして、すべての経済主体を「自由競争」の「競技場」に放り込んだ。そこでは、プレーヤーはあくまで対等な立場で競争すると想定されている。しかし、デビッド・ハーヴェイも『新自由主義 その歴史的展開と現在』(渡辺治監訳、作品社)で指摘している通り、それは「無邪気なユートピアであるか、富の集中とその結果としての階級権力の回復を意図的にごまかしているかのどちらか」にすぎない。各々の合理的判断と選好の材料となる情報の量も、そもそも情報へアクセスするための力も手段も、すべてのプレーヤーが平等に保有することなど現実問題としてあり得ないのであり、事実上「持てる者」にこそ有利なゲームになるためである。

 ケインズ主義的福祉国家は、そうした構造的「アンフェア」に国家権力が対抗措置を講じる仕組みを構築したが、国家権力の干渉を否定する新自由主義は「自己責任論」をもってその回答とする。つまり、いかなるライバルをも蹴落とせるような情報や条件をリングに上がる前に仕込んでおくことも、プレーヤーの努力や資質の一環であるというわけである。その理屈からすれば、ゲームのルール策定者や裁定者に事前に働きかける、あるいはそのような役職に息のかかった人物を送り込んでおくといったようなことも、プレーヤーの模範的行動と解されうる……。

 一方で、対等な競争であると素直に信じ、真面目な努力を重ねる大半のプレーヤーは、競争に負け続けていくなかで次第に消耗していくのである。その先には2つの選択肢しか残されていない。すなわち、プレーヤーであることをやめるか、勝者の隷従者となって生きながらえるかである。「自己責任」に基づく「自由競争」のテーゼは、このように、「フェア」の様相をまとった賄賂や縁故主義の不正が横行し、一握りの強者による寡占が進む社会を必然的に帰結する。

シティズンシップの破壊

 何より、これは個々人の思考様式を劇的に変化させずにおかない。ウェンディ・ブラウン(『いかにして民主主義は失われていくのか 新自由主義の見えざる攻撃』中井亜佐子訳、みすず書房)によれば、古典的経済自由主義が前提としていたのは「熟慮、個人の自立、抑制、主権のあらゆる基本的な要素」を備えた経済主体、「言語と理性によって促進され、交換をつうじた相互利益の関係を生み出」す経済主体としての、国民1人ひとりであった。

 一方、新自由主義の社会モデルでは、個人は「常にどこでもホモ・エコノミクスでしかありえないもの」、それも「交換や利害の形態ではなく人的資源というかたちをとり、自身の競争地位を強化し、その価値を評価しようとする」「剥き出しの利害関心の生き物」として設定され、またそのようであることが奨励される。そうして「不平等が標準となり、規範にさえなっ」た社会で、各人の関心は「生活のあらゆる領域において自身のポートフォリオの価値を高めること」ばかりに向けられるようになる。逆に、連帯や公共善といった「市民性(シティズンシップ)」への志向は「劇的に希薄化」してく。

 しかし、社会において人的資本としての存在意義しか与えられない以上、人々は「自分の活動や人生設計を自由に選択することなどできないし、欠乏と不平等の世界にいながら競争相手の技術革新や成功の要因に無関心でいることもできない」。つまり、「もはや道徳的自律性、自由、あるいは平等を備えた生き物」でもなければ、「自分自身を満足させるために容赦なく利益を追求する生き物ですらな」くなるのである。これでは「ホモ・ポリティクスだけでなく、ヒューマニズムそのものを棄てること」になると、ブラウンは警鐘を鳴らす。

 ここにおいて我々は、二度目の「焼け野原」に佇む日本人の様子を思い出す。外国に自国の富を買い叩かれる=植民地となる危険性を承知し、幾多の「アンフェア」の事象を目撃し(それがかつて、日本の二度の「興隆」の原動力となった)ていながら、もてる者ももたざる者も、より良い社会どころかより豊かな暮らしを望むこと、さらには自律した一個人として生きることさえまるで他人事であるかのように、ルーティン化した日常に黙々と身を委ねている現代日本人の姿を。これこそまさに、「ヒューマニズムそのものを棄て」た人間集団の姿といえまいか。

(つづく)

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