さらば、新自由主義~2度目の「焼け野原」から立ち上がるために(7)
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ライター 黒川 晶
新自由主義の自己矛盾
そのため、再び日本という国が活気と豊かさを取り戻し、一主権国家として国際社会のなかでしかるべき地位にあることを望むならば、まずは国民1人ひとりが新自由主義流の「フェア」の呪縛を解くがよい。それはさほど難しいことではない。各人がわが身の置かれた状況を少し振り返るだけで、新自由主義の言い分がいかに矛盾だらけか、よくわかる。
新自由主義は我々に、常に「自由競争」に勝ち続ける=市場が求める「商品」であり続けるために、生涯にわたり人的資本たる自分への投資とイノベーションを怠らぬよう要求してきた。それが全体の水準を上げることにもなるのだ、と。しかし、考えてもみて欲しい、我々は月日の経過とともに肉体も精神も衰えてゆく宿命を負った生身の人間である。よほどの超人でもない限り、そんなことが可能であるはずもない(可能であると考える者がいるとすれば、それは進化論の奇妙な拡大解釈のためか、シミュレーションゲームやファンタジー系ロールプレイングゲームのやりすぎである)。むしろ、どのスキルにも熟達することができぬまま一生を終えるのが関の山であり、全体として生産性を下げていくことになる(実際、そうなった)ではないか。
また、新自由主義が標榜する「トリクルダウン」など起こらなかった。それどころか、グローバル市場での競争を勝ち抜くために、企業は収益を内部留保すると同時に、容赦のない人件費削減を進めたのではなかったか。加えて、苛烈な解雇と労働強化の対象になったのは決まって生産工程や現場作業に直接従事する人々であり、リストラ断行のための雇われCEOや、その所業を正当化する論理を考えたり持ち上げたりするなどの、実際の生産に関わらない(それどころか生産的労働に携わる人々に損害を与える)仕事――デヴィッド・グレーバー評するところの「ブルシット・ジョブ(=超クソ仕事)」――には法外な報酬を支払うという、資本主義の原則とは矛盾する現象が進行した。これについて、新自由主義はどんな説明を与えることができるというのか。
そもそも新自由主義は、「個人の自由」を擁護するとしてあらゆる民間活動に対する国家権力の介入を否定しながら、それを実現・維持するために反対勢力の「個人の自由」を抑圧するような強力な国家権力を必要とした。1970年代のチリやアルゼンチン、80年代のメキシコなどにおいて、それがいかに暴力的なかたちで行われたかは、ナオミ・クラインが著書『ショック・ドクトリン』(幾島幸子・村上由見子訳、岩波書店)のなかで赤裸々に報告している通りである。
日本でも、小泉政権以来、強行採決や反対派のパージなど、政府はすっかり強権的に振る舞うようになった。そしていま、菅義偉政権は「一に自助、二に共助、最後に公助」を標榜するとともに、内閣に権力が集中するようなつくりとなっている憲法改正案を国民投票に持ち込めるよう画策している。政府が目指しているのは、しばしばそう評されるような「大日本帝国」の再現ではない。それは新自由主義国家の完成なのである。
経済の基本に立ち戻れ
何より、我々は新自由主義が想定するような「剥き出しの利害関心の生き物」ではない。新自由主義の発想からすれば、慈善活動のような無償の活動すらも自己投資の一環(たとえば「売名行為」など)ということになるが、それは人間というものに対するあまりにひどい侮辱である。しかも、炊き出しや「子ども食堂」を傍観するなどという、人々の善意に「フリーライド」してはばらない厚かましさ!
そもそも戦後、日本がなぜ高度経済成長を成し遂げえたか、顧みるがよい。それは、「売れる商品」をつくったからである。では「売れる商品」とは何か。「他者」に喜びや驚きをもたらす商品である。三輪晴治氏が『日本経済再生論 ディスラプティブ・イノベーションの道』(文眞堂)で指摘する通り、「良い商品が売れる」のではなく、「売れる商品が良い商品」なのである。
従業員が企業のイノベーション創出――それは本来、労働時間の短縮による剰余価値獲得の手段であり、労働者から雇用を奪う性質のものである――に協力できるのは、それが「他者」に驚きや喜びをもたらすもの=売れるものを生み出すことにつながる営為であり、その結果として「自己」の収益をもたらすからであって、その逆ではない。そして、その積み重ねが国際的地位の向上につながるのであって、その逆ではない。経済学者の田代秀敏氏が端的に表現する通り、「人に新しい暮らし、新しい喜びを示したところが覇権を得る」(IWJ、2020年11月20日インタビュー)のだ。
この因果関係を履き違えている新自由主義を貫く限り、その国家には経済発展も覇権も望み得ない。そのため日本人は、二度目の「焼け野原」から再び立ち上がるために、新自由主義の思考様式を改め、まずは他者の利益に寄与するという経済活動の基本に立ち戻らねばならない。ただし、二度目の「大規模・集中・グローバル」の過程で、日本は、豊かな自然や食料といった、天賦の「資本」さえも小銭に変えてしまっている。その意味で、「焼け野原」以下から出発せねばならないことは、覚悟しておかねばなるまい。
(了)
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