2024年12月27日( 金 )

不正会計から6年、東芝はやっぱり解体!~西室泰三と西田厚聰「東芝を潰したA級戦犯」(前)

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 日本人は、不幸なことを連想させる言葉を他の言葉に置き換えることをお家芸とする。守備隊の撤退は「転進」と言い換えられ、全滅は「玉砕」と美化された。敗戦は「終戦」とごまかした。東芝はこの麗しき日本文化を踏襲した。「東芝は解体ではなく進化」だという。まことに物は言いようである。

「物言う株主」の圧力で、会社解体に追いやられる

 (株)東芝は11月12日、会社を主な事業に3つの企業に分割し、それぞれ独立させる方針を正式に発表した。家電から原子力発電事業まで手がけた「総合電機メーカー」は解体されることになった。

 分割対象は「インフラ」「デバイス」「半導体メモリー」の3つの事業だ。インフラは原子力発電、交通システム、エレベーターなど。デバイスはハードディスク駆動装置(HDD)やパワー半導体が中心。現在の東芝は、半導体メモリーとして、約4割を出資するキオクシアホールディングス(株)(旧・東芝メモリ(株))や電子機器の東芝テック(株)の株式保有会社になる。

 計画では、原発などのインフラサービス社とHDDなどのデバイス社を分離。2023年度後半をめどに上場手続きを終える。キオクシアの株は現金化して利益を株主に還元する。来年1~3月に開く臨時株主総会に会社分割案を提案する。

 綱川智社長はオンライン記者会見で「東芝は140年以上の長い歴史のなかで会社のかたちを変えてきた。解体ではなく、未来に向けた進化だ」と述べた。大株主である複数の海外投資ファンドなど「物言う株主」に追いつめられた結果が、進化と言い繕った「解体」だ。

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 東芝は15年に不正会計問題が発覚し、経済産業省と協力して進めてきた米国の原発事業で巨額損失を出した。経営の失敗が、解体に向かわせた。

 名門・東芝の歴史を振り返ってみよう。

東芝の創業者は「からくり儀右衛門」

 東芝のホームページは、「東芝のルーツは『からくり儀右衛門』と呼ばれた田中久重と、『日本のエジソン』」としてその名を知られた藤岡市助の遺伝子が結びついたことに始まります」と記している。

 「からくり儀右衛門」の愛称で知られる初代・田中久重は筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の生まれ。からくり人形「弓曳童子」や和時計「万年時計(万年自鳴鐘)」を発明し「江戸のエジソン」と呼ばれている。

からくり時計 イメージ JR九州久留米駅前には、田中久重を記念して「からくり時計」が設置されており、久留米市民に親しまれているが、東芝の創業者であることは意外に知られていない。

 初代・田中久重が1875(明治8)年に東京・新橋に電信機工場を創設した。これが東芝の創業にあたる。その後、2代目が発展させたのが(株)芝浦製作所である。

 もう1人の創業者である藤岡市助は周防国岩国(現・山口県岩国市)の生まれ。日本に電気、電球灯を普及させた功績が大きく、「日本のエジソン」「電力の父」と称される。藤岡は1890(明治23)年に電球製造工場を創設。これが後に東京電気(株)となる。

 1939(昭和14)年に重電の芝浦製作所と軽電の東京電気が合併して東京芝浦電気(株)となった。現在の東芝(1984年に商号変更)である。

 東芝はかつて、経営危機に陥った際、第一生命保険社長を務めた石坂泰三(社長在任1949~57年)や、石川島播磨重工業(現・IHI)社長だった土光敏夫(同65~72年)を招き、業績を回復した。その実績を評価され、石坂は第2代、土光は第4代の日本経済団体連合会会長に就いた。石坂は文字通り“財界総理”の異名がついた。

 赫々たる歴史をもつ、名門・東芝がなぜ解体されることになったのか。

西室泰三の社長就任が転換点に

 東芝崩壊の根本原因は何か。3つのノンフィクション、大鹿靖明著『東芝の悲劇』(幻冬舎)、児玉博著『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』(小学館)、有森隆著『社長解任 権力抗争の内幕』(さくら舎)をベースに「失敗の本質」を解明してみよう。

 東芝の崩壊をもたらした”A級戦犯”は、13代社長の西室泰三(社長在任1996年6月~2000年6月)、15代社長の西田厚聰(同05年6月~09年6月)とみなすことができる。

 大鹿靖明は『東芝の悲劇』で、東芝の凋落は、経済環境の変化や技術革新に対応できなかったからでも、強大なライバルの出現によって市場から駆逐されたからでもなく、「人災」の観点から論じている。

 東芝が傾き出したのは、1996年に西室泰三が社長になってからだったという。西室は1935年12月19日、山梨県都留市生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。

 西室は「選択と集中」をスローガンに東芝グループ内の事業を再編した。この「選択の集中」は、東芝本社を分割化して、重電、家電、情報通信、電子部品の4つのカンパニーを、持株会社にぶら下げようとするもの。これは結局、後に原発とパソコン、半導体に集約された。そして原発とパソコンについては、言いようもない惨状を見る。西室が社長時代の4年間、業績は悪化し続けた。

 次の14代社長の岡村正(同2000年6月~05年6月)は、西室泰三が会長として腕を振るうための「置物」にすぎなかった。この間にITバブルが崩壊し、パソコンの大幅な値崩れを起こした。西室が15代社長に起用したのが「テヘランからきた男」西田厚聰である。

(つづく)

【森村 和男】

(中)

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