『脊振の自然に魅せられて』50年来の想いを実現、旧水無道復活事業(前)
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「ハイジ」が暮らす家
「日本のハイジ」と言ってもよい少女が暮らす1軒の家があった。少女は家族(祖母、母親)と共に福岡市早良区と糸島市の境界線にある山深い水無集落で、ガスも電気もない生活を送っていた。少女の家は、福岡市最大規模を誇る野河内渓谷から水無鍾乳洞に通じる道にある室見川の源流から500m入り込んだ山地にあった。
子どもの足で歩けば2時間近くかかる早良区の曲渕小学校に少女は1年だけ通う。ある時、少女の家は、不審火による火事で消失してしまったが、それでも家族は仮小屋を建てて生活を続けた。ガスも電気もなく、食料も十分ではない土地に住み続けたのは自然の豊かさに魅了されたからだろうか。火事の後、少女は小学校に通っていない。家庭の事情で行けなかったのかもしれない。
ここで少し歴史を紐解いてみよう。昭和36(1961)年の西日本新聞の記事に少女が住んでいた地に終戦後、朝鮮半島からの引き揚げ者が、田畑・山林など8キロ四方の土地を買い、ほかの人たちと共に入植したと書かれてある。それが少女の祖父・久保山清吾さんである。
入植者たちは、厳しい労働に耐えられず、この地から次々と去って行ったが、久保山さんのみは「理想郷づくり」を目指し、この地に留まった。
久保山さんは、近くにある水無鍾乳洞の整備に私財を投じ、石工を雇って洞窟にはしごをつけたり、第二鍾乳洞の入口を広くしたりすることに心血を注いだ。そして、俗世のわずらわしさから逃れ、自然と対話する生活を続けたのである。糸島市(旧・前原市)もこの地を観光地として開発しようとしたが、途中で断念したようである。
鍾乳洞入り口に洞内を案内する地図がたてられている。私が20代の頃(50年前)は、入口は鉄の柵で閉ざされており、カギがかけられていた。おそらく必要なときだけ使われていたのだろう。
現在、この鍾乳洞入口は崩落によって広がり、安全上の問題により立ち入り禁止となっている。鍾乳洞からは冷気が流れ出しているため、夏の間、入口前にあるベンチは井原山登山者たちの休息の場となっている。
少女の想い
少女は中学入学にともない家を出て、八女市の中学校に通った。中学校卒業後は、住み込みで働き、美容師免許を取得。結婚して4人の子宝に恵まれ、現在は造園の免許を取り、造園業者として生計を立てている。その女性が西野玉琴(にしの たまき)さん53歳。笑顔を絶やさぬ女性である。理想郷を目指した祖父の8haの山林は現在、西野さんの名義になっている。
「私の家の前に登山道があり、登山者は必ず家の前を通っていた」。西野さんの幼いころの記憶である。あれから50年が経ち、「昔のように登山道を復活できないだろうか」と考えた西野さんは今年になり、思い切ってかかりつけ医に相談してみた。そのかかりつけ医は、交流のある宝満山登山口近くにある山の図書館の主に話をもちかけた。
野河内渓谷のことなら野河内渓谷周辺の登山道整備を行っている「往還の会」に聞けばいいということで、往還の会のリーダー・平田氏のもとに連絡が入る。平田氏は岩登りも冬山もこなす「山のスペシャリスト」。福岡県労働者山学会の役員であり、我が「脊振の自然を愛する会」の副代表 Tとは山学会の仲間でもある。
今年の6月28日、平田氏から筆者に「旧水無道を復活させたいので協力してほしい。野河内渓谷も水無道も脊振山系なのです」というメールが来た。この平田氏の呼びかけに当然のことながら「脊振の自然を愛する会」も賛同。7月10日、「脊振の自然を愛する会」「野河内往還の会」など8団体が参加し「水無集落旧登山道整備プロジェクト」が立ち上がった。(以下、愛する会)
井原山バス停に集合、現地を視察する。「自然が豊かだが、ゴミの処理をしなくてはいけない」。筆者も副代表 Tも、まずはゴミ処理を行うのが先決だと感じた。
(つづく)
2021年11月25日
脊振の自然を愛する会
代表 池田 友行関連キーワード
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