【追悼】100億円トップバッター 東建設元代表・東正信氏逝去
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5年前までは麻雀を楽しむ
福岡のゼネコンとして最初の「100億円企業」の栄誉に浴した東建設・元代表の東正信氏が4月23日に逝去されていたことがわかった。享年87、老衰であったと聞いている。葬儀は身内だけの密葬であった。
故人とは5年前までは2カ月に1度は大名周辺でよく遭遇したものである。故人は麻雀帰りに、筆者は日課のウォーキング最中の夕方に、頻繁に出くわすのである。その日の勝負の結果は顔色で即座にわかった。ご機嫌か不機嫌かがすぐにわかったからだ。いつも3分ほどの立ち話で別れていた。10年前までは年1ないし2回は飲み交わしたこともあった。
懸念を抱き始めたのは5年前からである。麻雀仲間が減ってきた。また麻雀に集中するだけの体力が失われてきた。自ずと勝負する回数が減り、そうなると外出する機会そのものも減ってしまった。当然、通りで出会うこともなくなっていた。だから心配していたのである。そしてこのコロナ禍の2年間はほとんど自宅に籠(こも)ったきりであったという。人と触れ合うことで英気を維持していた故人が「老化」していくことは成り行きでもあった。最後に街角で遭遇したのは4年前だったろうか。
倒産しても15年はOB会を定例化
筆者が東正信氏に刺激を受けたのは1988年の時である。東建設が福岡のゼネコンで初めて完工高100億円台を突破した。「福岡にもついに100億円のゼネコンが登場した。これからは100億円を突破しないと建設業の資格はない」と書きまくった。夢と野望の稀有な業界に刺激を与えた役割をはたしたと今でも自負している。故人・正信氏のおかげである。その後にまず大きく飛躍したのが、上村建設であった
だがバブルの波は経営者・東正信氏に判断の狂いを与えた。「造注」という言葉を生み出したのは故人である。要するに請負という受け身の立場から主客転倒を狙って仕事をこちらからつくるという意味合いがあった。ところが平成初期のバブル後半において実態は地上げ・土地転がしに成り下がってしまった。結果、1997年10月に東建設は自己破産を申請してドラマが終わった。
ただし、正信氏の人生はこれでジ・エンドとはならなかった。通常は、倒産させた経営者には誰も寄り付かない。孤独な人生が待ち構えているのだ。故人の場合は逆の結果となった。面倒見の良さが幸いしたのであろう。倒産した後も、元社員や取引先のメンバーが正信氏激励に定期的に集まり、飲み会が行われていた。少なくとも倒産から15年まで、故人は寂しさとは縁がなかったと思われる。好き放題の人生を貫いた経営者であった。
合掌
【児玉 直】
法人名
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