2024年07月17日( 水 )

日本政治7つの重要分岐点

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 NetIB-Newsでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事を抜粋して紹介する。今回は、「戦後日本の政治には7つの分岐点があった」と述べる8月23日付の記事を紹介する。

佐藤栄作氏が首相を辞任したのが1972年7月のこと。

首相辞任表明会見を行ったのは6月17日だった。

後継首相に就任したのは7月5日の自民党総裁選で勝利した田中角栄氏だった。

田中角栄内閣が発足したのは1972年7月7日。

田中内閣はこの日から3カ月経過しない1972年9月28日に日中共同声明を発表し、日中国交正常化を実現した。

本年9月28日は日中国交正常化50周年にあたる。

日本が米国に先駆けて中国との国交を正常化したことに激怒したのが米国のキッシンジャー国務長官。

キッシンジャーは

"Of all the treacherous sons of bitches, the Japs take the cake."

「最悪のクソ野郎のジャップがケーキを横取りした」

と発言していたことが外交文書から明らかになっている。

その後、田中角栄首相はロッキード事件で失脚させられる。

米国に服従しない日本政治家に対して米国=CIAは人物破壊工作をしかける。

田中角栄氏が失脚させられたことを受けて三木武夫氏、福田赳夫氏が首相の地位を獲得したが、自民党を支配し続けたのは田中角栄氏だった。

その後、2000年4月に小渕恵三首相が病気に倒れるまで、自民党で主導権を握り続けたのは旧田中派であった。

1947年の総選挙で社会党党首片山哲氏を首班とする内閣が樹立されたが、1947年に米国の対日占領政策の基本路線が転換。

日本民主化は中止された。

新たに実行されたのは日本非民主化、日本反共化、日本再軍備化、日本植民地化であった。

米国は戦犯容疑者の一部を釈放し、米国のエージェントとして活用したと見られる。

1948年12月23日にA級戦犯7名に対する絞首刑が執行された。

翌12月24日にA級戦犯容疑者19名が釈放された。

このなかに岸信介氏、笹川良一氏、児玉誉士夫氏が含まれていた。

1968年の「国際勝共連合」創設に尽力したのがこの三名である。

1947年3月のトルーマン・ドクトリン発表以降、米国の外交政策が転向した。

連動して対日占領政策も転向し、GHQの主導権がGS=民政局からG2=参謀2部に移行した。

1947年から1955年ごろにかけて多発した日本の怪事件を松本清張が『日本の黒い霧』(文春文庫)に取りまとめたが、怪事件の黒幕として行動したのがG2と見られている。

片山哲内閣、芦田均内閣は破壊され、吉田茂内閣が改めて樹立された。

爾来、米国・自民党二重構造の日本政治支配体制が永続して現在に至っている。

この歴史のなかで、日本政治に重要な転換点が何度か到来した。

1993年8月総選挙を経て細川護熙連立政権が樹立された。

1955年の保守合同以来、自民党が初めて下野した画期的事件であった。

しかし、連立野党政権は破壊されてしまう。

自民党は社会党に手を回し、政権を奪還した。

1994年6月に羽田孜内閣が総辞職し、自社さ連立政権が樹立された。

このとき、内閣総辞職でなく、衆院解散・総選挙を選択していれば、その後の歴史は違うものになっていた可能性がある。

この問題を含めて7つの重要分岐点が存在すると私は判断している。

※続きは8月23日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」「日本政治7つの重要分岐点」で。


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