巨人稲盛和夫氏に学ぶ(12)信じる力と実践(前)
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稲盛和夫氏が亡くなった。氏は企業家としての業績とともに、経営者の育成をもう1つの使命として、哲学を万人に広めることに心血を注いだ。その教えは、国内のみならず海外からも大きな支持を得ている。これからも稲盛氏を慕い、あるいは稲盛氏の教えを受けて実践する人々に導かれて、新たに氏の学門を志す人は続くだろう。氏の代表的著作『生き方』(2004年)を読み、学んだことについてまとめた。僭越ながら寄稿させてもらうとともに、心から追悼したい。
まず、氏の人生哲学と経営論の関係を確認しておきたい。稲盛氏は経済界の巨人であるが、著述も膨大である。著述は大きく人生哲学と経営論に分かれる。
経営論を読むと、氏は自身の経営論が哲学に基づいた理論であり、その背景にある哲学を抜きにして経営の方法論だけを利用してもうまくいかないことを、読者に対して忠告している。氏はその哲学を、「人間として何が正しいか」という言葉で言い表している。それは氏の人生哲学の基本原則であり、たとえそれが直接に語られない場面においても、氏の哲学の神髄として常に底を流れ、読者はさまざまな氏の言葉のうちにその反響を聞き、その問いを投げかけられ続ける。
一方、氏の人生哲学にとっても経営論は不可分である。それは氏が著述家である以前に実践的な経済人であるからだ。氏の哲学は決して著述のなかだけで完成するものではなく、経営や各々の人生の現場で葛藤し実践を迫られるなかで、生きてくる哲学である。
著書『生き方』では、スケールの非常に大きい人生哲学が展開されている。ここにおいて氏は、個人の想念、人間の道徳、魂の不死、他者の利益、そして宇宙の法則までを取り上げる。氏が1人の人間から宇宙まで話を広げても、一貫しているのは普遍的な善の存在に対する氏の強い信念である。氏が、良い想念をもてというときも、強くイメージすれば現実になるというときも、また、人間として正しいかどうかということを原理原則にせよというときも、魂は不死であり人生の苦労は魂を磨くためにあるというときも、他を利する心をもてというときも、人間は宇宙から授けられた知恵を入れる容器に過ぎないというときも、宇宙は普遍的な法則に貫かれているというときも、そこには一貫して善に対する氏の強い信念が根底にある。
そのようにあらゆる次元において、氏は善の存在を想定しているが、善の実現を氏はどのように考えているのだろうか。それらのうち、どれか1つだけ善を実現すればよいと氏は考えているのであろうか。たとえば、良い想念をもつということだけを、あるいは、他を利する心をもつということだけをもてばよいのか。
氏の経営論を見ると、そこでは、会社で働く従業員の利益、経済活動の主体となる会社の利益、会社が経済活動によってかかわる世界の利益、この三者の利益が円満に満たされなければならないとしている。とすると、人生哲学においても氏は、すべての善を円満に満たすことが必要だと見なしている筈である。しかし、そのようなすべての次元において善を円満に満たすということが、私たちにできるだろうか。
たとえば、次のような場合を考えてみる。Aの子どもを殺したBを、今、Aが殺そうとしている。CはBを助けようとしてAを殺すべきか。その場合、CがBの罪を知っているのと知らないのとでは、Cの行為の善悪は異なるか。あるいは、AがBを殺そうとする動機が復讐の場合と快楽殺人の場合とでは、Aの善悪は異なるか、それにともなってCの善悪も異なるか。BがAの子どもを殺したという情報が誤情報であり、誤情報であることを3人ともが知らない場合、ABCそれぞれの善悪にも影響を与えるか。ここでいうABCの善悪とは、道徳上の善悪ばかりをいうのではない。想念、魂、利他、宇宙すべてについてABCそれぞれの善悪が問題となるのである。
この状況では、どれをとっても善悪が一筋縄でいかないことは容易に想像できる。すなわち、正しい情報がなければ、正しい想念をイメージすることはできない。道徳の基準や価値観は社会によって異なる。
ここでの他者の利益とは何か。3人が同時に善であることは、あり得るのか。また、ここでの魂を磨く労苦とは何か。
例に挙げた殺人という状況を、お金や心の関係に置き換えてもいい。無論、そこまで複雑な例は通常生じないという人がいるかもしれない。しかし、この例を挙げるのには、のちに説明するように訳がある。ともかく、私たちは複雑な利害が絡む社会や人間関係のなかで生きており、1人の善を実現することすら難しく、全員の善を実現することが至難であるのは説明するまでもない。
(つづく)
【寺村 朋輝】
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