2024年07月16日( 火 )

巨人稲盛和夫氏に学ぶ(12)信じる力と実践(後)

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 次に、氏の宇宙論を見てみる。氏は宇宙の法則にも想像力を膨らませて善を見る。ビッグバン理論について、宇宙の始まりから原子の生成、生物の誕生までの展開を、善き方向へ展開する意志の表れと見る。

 この善は想念や道徳や利他の善と関係があるのだろうか。仮に宇宙の法則が善であるとしても、上記ABCにおける葛藤を、宇宙の善は共有するのか。いや、宇宙の善はABCの葛藤には左右されない。宇宙の善はABCの葛藤から独立しているからだ。

 しかし、そうなると、宇宙の善のみを信じて、宇宙の善以外を否定するという方法もあることになる。そして、宇宙の善のみを信じればよいことになり、ABCの葛藤は解決することになる。さて、これは人間として正しい解決だろうか。

宇宙 イメージ    稲盛氏の哲学において、ABCのような葛藤は問題とならない。善の矛盾、善の衝突、善の無関係は考慮されないのである。もっとも、それは氏の著述の欠点とはならない。氏にとって大切なのは、氏が正しいと信じることを率直に人に訴えることなのである。想念の持ち方に、道徳に、魂の磨き方に、他者の利益に、宇宙の法則にすべて善があることを人に伝えることである。氏はそれが人を正しい方向へ導くものと信じている。

 氏は、自身の哲学内部における相互の整合性を保ち全体を完成させることや、読者が現実に遭遇する葛藤を予想して、それに対する予防線を事前に張るなどということにまったく関心がないのである。

 一方、私たちの善についての通常の思考方法は用意周到である。想念や道徳や魂や利他や宇宙は、氏ばかりが取り上げるのではない。私たちもこれらに似通った観念を考えている。しかし、氏のように強く、すべての善を円満に満たすことを志向することはない。円満な善を実現することは難しいと悟って、勝手に辻褄合わせをし、そのなかで自分を正当化しようとするのである。

 自分を正当化することも、それぞれの善について辻褄を合わせることも、私たちが人生のなかで身に着けた自己防衛の思考方法である。それは頭のなかだけで自己防衛するのではない。自分の人生についても、辻褄が合った人生として全うするために、人生の範囲を狭めようとするのだ。そのようにして、人はABCの葛藤が決して自分に生じないように周到に生きる。

 そのような臆病な人間に対して、氏は何を教えるのだろうか。氏は実践の人である。氏が信じよというものを信じ、実践の現場に踏み出してみるとする。そうすれば途端に現実にぶ
つかるであろう。しかし、頭のなかで悩むより先に、現実のなかでもがきながら前進せねばならない。頭のなかの辻褄合わせでは存在しないはずの私が、実践の現場では存在しているのだ。

 先に挙げたABCの葛藤をもう一度考えたい。自分が3人のいずれかの場合、どのように行動するのが正しいのか。頭のなかで考える限り、答えはない。

 しかし、実際の現場における差し迫った状況においては、人は決断しなくてはならない。それは究極の状態であればこそ、全身全霊をかけての決断となる。ここで求められる正しさとは、決して試験問題における正しい解答と同じ意味ではない。人間が全身全霊を傾けて踏み出す、実践の地平にしかない正しさである。

 実践することで、人は間違いを突き付けられる可能性がある。実践を保留すれば、人は正しさを装うこともできる。しかしそれは、生き方における本当の正しさではない。実践する人にしかない正しさが人間にはあるのだ。

 ABCの葛藤を傍から第三者が見て、いかに巧妙に裁こうと、第三者には本当の正しさなど分からないのである。その正しさは本人すらも分からない。宗教的にいえば、神様にしか分からないことである。稲盛氏がいう「人間として正しいかどうか」の正しさとは、究極的に実践の現場にしかない正しさのことだとわかる。

 氏は人間の集団たる企業を経営し、外部の集団と関係し世界を渡るなかで、人間の悪も宇宙の無情も知っていたであろう。現実を知る人は、人間の善が簡単には実現しないことを、宇宙の法則が善に必ずしも流れないことを知っているはずだ。人は通常痛い目にあうと臆病になり、人生を複雑に考え、悲観的になり、あるいは辻褄を合わせて自分を正当化することにエネルギーを費やす。そして自分の人生を狭めていく。

 氏のように人間を十分に観察し、人間集団の経営を考えてきた人は、そのような人間の性質をよく知っているはずである。そのうえで、人をいかにして組織し、人を動かし、全体の利益につなげるか。氏は人の弱さも強さもよく熟知して、経営論と人生哲学をつくり上げてきた人である。

 人間と宇宙の善の矛盾に拘泥せず、頭のなかではただ善が一致することを信じよ、そして実践の現場に飛び出せと、これが、氏が全体を通して伝えようとした最も大切なことであると私は信じる。

 以上、私が氏の著作から学んだことである。私がこのように学んだからと言って、これらが氏の著作において客観的に書かれてあると主張するつもりはない。これは私の主観的な学びなのである。

 学びの責任とは、教師にあるのではなく、学ぶ人自身にある。何を学ぶかは学ぶ人自身の責任である。だが私が学んだことは、稲盛氏の教えのなかに内在している。私が以上のように氏から学んだと主張しても、決して氏は反対しないであろうと思う次第である。

 合掌。

(了)

【寺村 朋輝】

(12)-(前)

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