2024年11月10日( 日 )

【追悼】池永正明氏 第2の人生こそが凄まじい

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5年余りで103勝、前代未聞の成績

池永氏 葬儀    9月25日、池永正明氏が76歳で永眠した。野球に興味がある方なら、池永氏のことはよくご存じだろう。現役生活5年余りで103勝を挙げており、このままの勢いが続けば300勝投手になるのは間違いないとみられていた。池永氏とともに1965年に西鉄ライオンズに入団した尾崎正司(将司・ジャンボ尾崎)は、すぐさまプロゴルファーに転じた。

 池永氏とともに1965年に西鉄ライオンズに入団した尾崎正司(将司、ジャンボ尾崎)は、すぐさまプロゴルファーに転じた。ジャンボのプロ100勝記念祝賀会に池永氏の誘いを受けて参加したT社長は、そこでジャンボが語ったことに驚愕したという。「池永君と同期で入団したが、彼の球威を目の当たりにして『あぁ、俺は永遠に勝てないな』と感じてプロゴルファーに転向した」と告白したのである。加えること「池永君がプロ野球から追放された後、我々の世界にきていたら、自分はとても100勝の栄冠を得ることはなかった」と本音を漏らしたそうだ。

 T社長は「ジャンボがゴルフでも負けると告白するほど、池永さんがゴルフの実力を認められていたことにも驚くが、池永さんは友人のジャンボを慮ってゴルフ界に転向しなかったのであろう。こうした気配りは、長い付き合いのなかで幾度か目撃した」と話す。プロ野球時代の功労はここまでにして、池永氏の第2の人生の凄まじさを語りながら、追悼文を先へと進めよう。

肝っ玉が違う

 筆者が池永氏の肝っ玉の大きさを知ったのは30年前のことである。今でこそ中洲に幾棟ものビルを所有しているAを取材したときに耳にした事実には、ほとほと感心させられた。68年当時、Aはまだスタンドバーの店主だった。28歳の時であっただろうか。当時の500万円といえば、彼にとっては大金だったが、これが焦げ付いた。弱気になったAは、常連客だった池永氏に何気なくボヤいたらしい。

 2日後、池永氏は「オヤジ!この金を使ってくれ」と500万円を包んだ袋をAに手渡してくれたそうだ。Aは6歳年下である池永氏に土下座して感謝の気持ちを示した。池永氏が水商売を始めたときには、Aは先輩としてさまざまな助言をし、その後の池永氏の名誉回復・復権運動において中心的な役割を担ったという。

「一生喧嘩仲間」のK

 「池永は本当に我の強い男であった。しかし、商売の原点であるサービス精神は旺盛であった」とKは語る。池永氏は1970年の退団後、バー「ドーベル」の経営を始めた(2007年閉店)。一番早く店に出勤し、グラス拭きなどオープンまでの準備を自らの手で行う。「名前だけではいずれ忘れられる。池永のひたむきな姿勢、行動に感銘を受けて長年の間、固定客がついてきたのであろう」とKは分析する。

 池永氏は酒好きではなかったが、がんばって酒を飲みながら売上を増やす努力をしていた。「中小企業の経営者としての苦しみを体験したことが、35年間も商売を続けられた原点となった」とKは指摘する。ただ、池永氏はお客におべっかを使うことも、へりくだって迎合することもしなかった。

 Kは池永氏との35年の付き合いで「もう少し上手に弁明して野球界に残れば良かった」といった愚痴を一言も聞かなかったという。「本当に器量の大きい奴である」と褒めたたえながらも「本当に頑固な奴であった。いつも喧嘩となったが、翌日には仲直りをしていた」とKは懐かしむ。もちろん、T、A、Kの3氏とも最後の別れに列席した15名の友人に含まれる。

75歳のエージシュート

ゴルフコンペにて 左が池永氏
ゴルフコンペにて 左が池永氏

 人生の最終局面において癌に悩まされていた池永氏だが、今年6月、非凡な人生を象徴するような出来事があった。Tが主催するゴルフコンペでのことだ。池永氏は当初、体調不良だと断っていたが、根負けして参加した。Tは舌を巻く。「不調だと言い訳しながら、スコア75ですよ。エージシュート(年齢以下の総打数でのホールアウト)を達成するんですから頭が下がるどころか、お前は化け物だ、と池永に言いました。本人はにこにこしながら『マグレ、マグレ』と言っていましたが」とKは話す。

 池永氏はその後、7月に人生最後のゴルフをしたようである。同月末から終末期医療を受けるようになり、9月25日、76歳で天に召された。第2の人生を堂々と歩んだ点において、池永氏の実績に匹敵するようなプロ野球選手は今後おそらく出現しないであろう。

合掌

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