【追悼】まるは創業者・畑中氏 建売の歴史を振り返る
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安らかに眠られる
福岡の建売業を黎明時代から牽引されてきた畑中徹氏が8月12日に永眠された。御年88歳。最近は体調を壊して闘病生活を送られていたという。男性の平均年齢からいえば悔やむ歳ではない、充実したビジネス人生を過ごされたといえる。ここでは単なる追悼に終わらず故人の経営者として活躍した時代を振り返りながら福岡の建売の歴史をたどってみよう。
故畑中氏の貢献度をまとめると(1)手堅い経営が高い評価を得ていた。だから人が集まり、情報が集まっていた。(2)非常に面倒見がよく業界の旗頭役を担っていた。(3)だから業界の役職も卒なくこなしてきた。(4)そして何よりも事業後継者を育て上げた。建売業界で同時期に設立された事業者のなかで事業継承の成功したケースは稀有である。長男・直氏が隆々とした健康住宅(株)を営んでいる。建売業を発展させて本格的な高級注文住宅へ変貌させたのである。
建売の歴史
福岡および周辺での建売ビジネスが本格化したのは1965年(昭和40年)を境にしている。建売の元祖としてこの福岡には二大勢力があった。1つは明治不動産、もう1つは東峰住宅産業(財津派閥)である。明治不動産出身の成功者は東洋開発を起こした庄野崎氏である。庄野崎氏は福岡市出身である。地元出身は珍しい。都市福岡の発展に惹かれて「不動産ビジネスにチャンスあり」と見こして一攫千金を夢見て押し寄せてきた兵どもが多かった。もともと、株ブローカーの経歴をもった猛者たちが不動産転がしに転じてきたものだ(土地の上に建物を建てて売ることがビジネススタイル)。
第2の勢力は東峰住宅産業である。財津幸重氏が大分県日田市から福岡市へ駒を進めてきた。不動産業を創業したのは1958年であった。東峰住宅産業として法人化したのは66年8月である。「福岡での建売が本格化したのが65年」と指摘した。ちょうどグットタイミングで事業を本格化させたのだ。当然の如く財津氏は莫大な財を成した。財津氏は業界のドンとして長年、君臨してきた(最終的には倒産)。
東峰住宅産業で一山当てようと、海千山千の猛者たちが同社の営業職に応募してきた。稼ぐことが目的であった彼らは自立心が人より10倍強い。長くて5年、短くて3年勤めてビジネスのツボをマスターして独立していった。だからこそ“東峰住宅産業OB”勢力が数多くいたのである。
故人畑中氏も若い時から商才に長けていた。もともと、田川市で商いを行っていたが、商売の勘は並ではなかった。「福岡にはビジネスの匂いがする」と嗅ぎ分けて来福した。68年6月に不動産業を起こしたのは34歳の時であった。個人事業を発展させて71年4月に「まるは商事」として株式会社へ改組した。建売の勃興期であったからこそ才覚に富んでいた故人は瞬く間に財を築いていった。筆者が企業調査の仕事に勤しみ始めたのが75年2月である。この時点で「まるはの畑中社長は手堅いしっかりした経営をする。東峰住宅産業の財津社長に次ぐ経営者ではなかろうか」と囁かれていたものだ。
建売業1期生は1933年~37年生まれ
福岡での建売業1期生の経営者らの出生年が33年から37年に集中しているのは興味深い。故人畑中氏は34年生まれであるが、大半がこの4歳内に集中している。故人とライバル争いをしていた元経営者たちは今や大半が物故者か病院暮らしのようである。この5年以内には黎明期から事業を起こした経営者たち全員が逝去されるであろう。あの闘争心を燃やして猪突猛進する個性豊かな世代の方々が消えていくのは寂しい。時代は非情に進む。忘却の彼方に追いやられる。
繁栄期を前原田園地帯で目撃
(1)建売購入のメリット
筆者は76年8月、28歳のときに前原町高田(現・糸島市高田)の建売を買った。20所帯ミニ団地であった。購入価格敷地50坪、建物29坪で1,080万円であった(100万円値切った)。田んぼを埋め立てしてそのうえに家を建てた建売である。建物は特徴のない2階建てであった。売主は日本ハウスであった。同社の増村剛社長も熊本から一山当てようという魂胆で来福したのである。畑中氏を経営者として高く評価していた1人であった。
ここで強調したいのは、75年以降、建売業界はまさしく繁栄期に突入したということである。筆者はこの建売を購入した際に住宅ローンで950万円借りたのだが、金利は10.5%であった。金利が高かったので5年で返済完了した。84年に福岡市西区に家を建て、転居して貸家として他人様に借りてもらった。のちに会社を起こす際に資本金捻出の目的でこの建売を売却した。価格は1,800万円で売れた。720万円の売却益を得た。
筆者のささやかな不動産売却体験からも「資産づくり・現金増やし」のために建売を若い内に購入する優位性を指摘したかったのである。現在のマンション販売活況の原因は住宅ローンがタダみたいなものであるからだ(10%金利と比較して)。建売の場合には75年当時以降、転売する場合には儲けを握れるメリットがあった。その一例を挙げたのだが、要するに、75年からの10年間は建売業界にとって繁栄期であったといえる。
では駒を進めよう。筆者が購入したミニ建売の物件から田んぼを境にして300m東に、まるはの建売16棟があった。デザインは日本ハウスを上回っていた。「しまった!早まった」と後悔の念を抱いた。この建売り区画から福岡市西区になるからである。福岡市と前原町(当時)の住民メリットを比較しよう。福岡市の住民税は安い、前原町のそれは非常に高かった。前原町の優位性を挙げると、当時、地下水を利用できていたから福岡市の2度の断水にもまったく関係を受けなかった。
(2)地元同業者が高収益を上げるのを目の当たりにして糸島地区へ進出
「まるは」は当初、福岡市西部地区を拠点にして建売を仕込んでいた。なぜ前原町に関心を示したのか。前原町の地元業者の千代福住宅産業と是松興産(本社:福岡市西区、オーナーは前原町出身)が凄まじい完売実績を挙げていたからである。この2社は70年前後から建売を手がけるようになっていた。この2社による建売進出によって前原町の田園風景が無骨な風景と化してしまう。ただし、これによって前原町は福岡近郊地域としての地位の確保をはたしたのである。
だが現実の競争は激烈であった。周船寺北に位置する田尻の大再開発(田んぼを含むゾーン)が開始されて大手業者が進出してきた。地の利を得ていた千代福住宅産業、是松興産も89年までには事業が行き詰まりとなった。「建売業者が20年間繁栄できない厳しい法則」が2社にも適用されたのである。ただ農業主体の街であった前原町が建売の林立で様変わりした。3町(厳密にいえば前原町)が合併し、糸島市が誕生して10万人を超える都市になったのである。現在は建売ではなくマンション供給に勢いがある。
住宅の機能が問われる時代の到来
1989~2000年までに地元建売業者は淘汰期を迎えた。1991年11月に興栄ホーム(福岡市早良区)が会社更生法を申請する。また翌92年大蔵住宅(福岡市中央区)が破産した。2社とも福岡建売業界の二大巨頭であった。この巨頭の行き詰まりは建売業界の先行きの険悪さを物語っていたのである。土地高騰の神話が壊れて建売を所有しても資産増にはならないことが広く認識されるようになってきたこともある。
「手堅い経営者」と呼ばれてきた故畑中社長は平成初頭のバブルを巧妙に乗り切ってきたのだが、物件によっては在庫が残る。また不動産関連に手を染めて資金固定化を招いた。過去の成功体験が通用しなくなったのである。また購入した不動産に家を建てて売るビジネスモデルに購入者が納得しなくなった。提供する住宅のコンセプトが問われる時代の到来、経営陣の交替期に差しかかったのである。
事業継承のモデルを模索
故畑中氏の経営者としての歴史を大雑把にまとめると、68年不動産業を自営してその後、法人化して建売主体の事業に注力してきた。95年までの27年間は故人にとって悔いないビジネス人生を送ったと思われる。ところが95年を境にして経営手法の負の遺産が圧迫してきてストレス充満となってきた。「どう企業存続をすれば良いのか?」と自問自答を繰り返してきたが解がない。
故人の長男である畑中直氏は、まるは取締役に就いていたが、長年の苦悩の末、「もう建売の売りつけビジネスは時代に合わない」という結論を下していた。「今後は土地を売る目的を捨てて、ユーザーに喜ばれる住宅を提供するビジネスに転換することだ」と認識して最終的に覚悟した。そして、「お客様の為になる住宅とは何であろうか?」と必死で探り当てる為に研鑽に没頭した。
前記したように90年に入って「住宅の機能アップ」から「現代住宅とは何たるもの」という哲学領域まで勉強会が花盛りであった。直氏は各種のセミナーに積極的に参加した。専門家と目される方に指導を仰ぐことにも必死になっていった。結果、「居住者に健康を提供できる家の提供が使命」という理念に至った。具体的には外断熱による高断熱高気密住宅を世の中に提供するビジネスモデルに辿り着いたのである。会社名は「健康住宅」である。98年8月のことだ。
理念経営を実体化させる
畑中直社長は健康住宅を興して24年を迎える。「健康を提供し、健康を守る住宅」という理念を掲げて高断熱高気密住宅のブランドを確立させた。福岡においては弁護士知識階層、医者、高級所得のインテリ層への信用は絶大である。高級住宅供給ではトップの地位を築いた。直社長は時代の波動を正面から受け止めて、「住宅のために、口ばっかりの理念ではなく実体化できる理念を掲げて」実体的業績を上げてきたことは誰しもが承知している。
建売・デベロッパーの業界では父親の事業を発展させて成功させる例は珍しい。聞くところによると故人畑中氏は15年前に「直に厳しく薫陶したおかげで、すばらしい経営者になってくれた」と喜んでいたとか!
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