2024年10月02日( 水 )

トランプの再来を望む

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広嗣まさし(作家)

トランプタワー イメージ    今から2年前の記事(この世界、どうなる?(3)トランプ革命の教訓)で私は以下のようなことを書いた。すなわち、ドナルド・トランプの出現は革命的な意味をもつものであり、彼の主張する「自国主義に徹しろ」は第二次大戦後の国際社会の全否定を意味するもので、だからこそ価値があると。米中や米露の対立も、国連も、それに付随する世界保健機関(WHO)も、どれも彼にはたいした意味がなかった。それら第二次大戦後の歴史の遺物を、まったく信じていなかったのである。

 ところが、こういう彼の世界史的意味を十分理解できた人が世には少なかった。既存システムに馴染まないその手法は、ほかならぬアメリカ本国の自称「民主派」から総スカンを食らい、大統領には再選されず、その後のヤケがたたって、いまだにその名誉を回復できていないのである。

 私がそれでも彼の再来を望む理由は簡単である。彼がいないと、世界が悪くなるからだ。金正恩を、習近平を、プーチンを止められるのは彼しかいない。彼のようなカリスマの持ち主であればこそ、相手を自分のペースに巻き込むだけでなく、イデオロギーに囚われないがゆえの柔軟さで懐柔もできるのである。

 彼の特質はその直感にあり、相手と接しているうちに新手を考えつき、すばやくそれを実現してしまうのだから周囲は舌を巻く。現代世界の政治家に最も欠けているその手腕こそ、まさに天才的なのである。

 彼は一概によその国のシステムを非難しなかった。北朝鮮も、中国共産党も非難しはしなかった。ロシアにはロシアのやり方があると認めたうえで、互いの利益をさぐる根っからの商売人だったのである。そのような人間がアメリカの大統領であり続けていれば、冷戦構造に逆戻りのバイデンのようなヘマはしなかったろう。ロシアのウクライナ侵攻など、硬直したアメリカン・イデオロギーから自由なトランプなら、うまく回避できたろう。

 大統領としてのトランプは「アメリカ・ファースト」を叫んだ。アメリカ中心主義のように聞こえて、実は逆である。世界がそれに気づかなかったのは残念至極であるが、彼が言いたかったのは、アメリカは「世界の警察」である必要などなく、各国の問題は各国で解決しろということだったのだ。従って、日本は「ジャパン・ファースト」で行けということになる。

 「日本は自前で自国の防衛をすべきだ」などと明言した合衆国大統領が今まであったろうか。日米安全保障体制はアメリカにとって無駄な負担だと見極めた彼は、一見するとアメリカのことしか考えていないかに見えるが、「日本は日本で自分のことを考えろ」と言っていたのである。こういう発言は、日本を日本として尊重していなくてはできないことだ。

 彼のような貴重なパートナーを失ってしまった日本は寂しいが、彼を失った現代世界もまた寂しい。彼には、どうあっても復帰してほしい。

 トランプは帝国主義の逆を行く人で、万国に商売の門戸を開こうとするタイプだった。ところが、この誘いを嫌う国もあり、その筆頭が習近平の中国だった。なんとなれば、習近平は中国共産党の独裁システムの崩壊を何よりも恐れたからだ。もしトランプ流に従えば、経済的にはうまくいくとしても、システムの崩壊とカオスの出現が目に見えている。そういうわけで、彼はトランプを裏切ってしまった。その裏切りをトランプは非難し、「中国にはガッカリした」と記者会見で言ったのである。

 世界がトランプとともに大きく変わろうとしていたそのときに、アメリカの「良識派」と呼ばれるイデオロギー信奉者たちがそれを妨げた。彼らのイデオロギーの根にあるのは、常に目の前に立ちはだかるものは敵であり、敵は手っ取り早く倒さねばならないという信念であり、これがアメリカの伝統となっているかぎり、「商いの道」を唱えるトランプとは反りが合わない。

 繰り返すが、トランプはアメリカ人にとっても、世界全体にとっても革命的だった。その彼を封じ込めたということは、アメリカと世界が自己革新の道を捨てて、保身に回ったということで、世界にとってもアメリカにとっても実は大損失なのだ。

 だが、そうはいっても、希望の灯がまったく消えたわけではない。一度消された火であっても、アメリカ社会のあちこちで燻り続けているかぎり、その燻りがいつ大火とならないとも限らない。

 無論、トランプが大統領に返り咲く日が来るのかどうかはわからない。しかし、彼の撒いた種が死滅したわけでないことはたしかであろう。アメリカ人でない私がアメリカ国民に望むのは、トランプ派になってほしいということではない。ドナルド・トランプという人物のアメリカ史における価値を、もっとしっかり評価してほしいということなのだ。

 トランプを評価することは、直情型のトランプ派になることではない。私たちはトランプを評価することで、イデオロギーに縛られずに世界を見ることができるようになるのである。

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