「宝くじの神様」と呼ばれた男(3)
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2022年の「年末ジャンボ宝くじ」は前後賞合わせて10億円だったそうだ。「夢を求めて」今年も宝くじの売り場で買い求めた人も多いだろう。この宝くじ、たった1人のバンカーが考案したということをご存じだろうか。今回はシニア問題を少し脇に置き、「宝くじの神様と呼ばれた男」の話を4回に分けて報告する。
焦土に咲いた夢の花
新富くじ発行のための臨時資金調達法「抽籤により当籤金を交付する証票案」は、圧倒的多数で衆議院を通過。昭和20年2月10日施行と決定した。通過できたのは、国家財政が「不浄な金でこの聖戦を戦えない」といっていられない戦況を示していたからだ。昭和20年7月16日、1等賞金10万円の「勝札」は全国一斉に発売された。しかし、発売最終日の8月15日に終戦を迎える。「勝札」は「負札」と揶揄された。8月25日、抽せんは戦災を免れた勧銀長野支店で行われた。「勝札」の後をどうするか。思案に暮れる片岡たちに、突然風が吹きはじめる。
インフレという巨大な怪物が急速度に国民生活に襲いかかった。こうした悪性インフレを一挙に抑制するには「新富くじ」の発行しかないと大蔵省も考えていた。勧銀貯蓄部(戦時債券部を改称)の片岡は平井部長と相談。当せん金のみの償還方法に生活必需品(酒、煙草、繊維製品、自転車、地下足袋、石けん、靴など)を加えることを確認し合う。即大蔵省に打診。蔵相の島津寿一と勧銀の平井謙吉が小豆島の同郷ということもあり、「新富くじ」発行の受託に成功する。その裏には勧銀が「勝札」発行という実績があったことはいうまでもない。
「喉から手が出そうな、宝物のような商品」がつくという意味で、新富くじ」の名を「宝くじ」と命名した。驚いたことに、大蔵省国民貯蓄局長氏家武、同計画課長内藤敏男、同総務課長今井一男(取材時には死亡)、勧銀平井謙吉も「命名者は自分だ」と譲らなかった。それだけ「宝くじ」に強い愛着があったことを示している。こうして昭和20年10月29日、「第一回宝くじ」が全国一斉に発売された。
片岡一久は合理化の神さまでもあった
「宝くじの神様」と呼ばれた片岡だったが、一方で徹底した合理化男でもあった。それを証明する事例がある。債券などの「抽せん償還の方法については、公明正大を期するために抽せん器も精巧複雑な器械を避け、外面から内部を透視することができ、(中略)当行が懸賞募集した図案により制作した鉄骨ガラス張り箱形の器械が使われた。このなかに一番号ごとに一個ずつ抽せん球を入れ、数人がかりで回して抽せんを行ったのである」(『日本勧業銀行七十年史』)とあり、抽せん風景を写した写真資料が掲載されている。巨大な抽せん器に入れられているのは1番から数万番まで書かれた丸い木製の抽せん球。抽せん器を攪拌し、必要な分だけ長いキリで一個一個突き刺して抽せんしたのだ。
この気の遠くなりそうな作業を必要な分だけ繰り返していたのが、大卒の超エリートたちだった。事務処理の簡略化は組織として最大の懸案事項のはずなのに、「コレ」に気づかない。大企業であるがゆえの疑問を差し挟むこともないエリート行員たち。これに疑問を持つ行員がたった1人いた。片岡一久である。片岡は、「0」から「9」という10の数字のみで、あらゆる抽せんを可能にしたのだ。いわゆる「組番号」と「下何桁」という今でも使われている抽せん方法である。この方法により、抽せん業務とそれにともなう事務処理がケタ違いに簡略化された。これは「番号抽籤論序説」と呼ばれ、勧銀総裁賞が授与された。
(つづく)
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』(平凡社新書)『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』(同)など。関連キーワード
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