2024年12月23日( 月 )

「夜香花」の香りと、70年前の出来事

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夜香花を前に語る原中誠志県議<

夜香花を前に語る原中誠志県議

 「夜香花が咲きました」と、原中誠志福岡県議から夜の10時に連絡があったので、福岡市中央区の事務所を夜遅く訪れた。
 その独特の香りと、夜香花にまつわる物語にひきつけられたのだった。70年前に死んだ者たちと生き残った者たちの想念が香りとなって私(記者)を呼び寄せたのかもしれない。

 「夜香花(やこうばな)」というのは、正式には「ヤコウカ」と呼ぶと教わった。英語名は「ナイトジャスミン」。西インド諸島原産の常緑低木で、現地では大きいものは幹回り30~40センチの木になるので、「夜香木」ともいう。中国の「夜来香(イエライシャン)」とは別の種類の花だ。

 夜香花は、夕方から花が咲き始め、満開になるのは深夜。1センチ足らずの花が10個も20個もまとまって開くと、いっせいに強い香りを放つ。
 原中事務所の夜香花は、今年は、8月25日に初めて花が咲いた。事務所の中に鉢を入れると、部屋中にその独特の香りが広がった。その香りは、南方戦線の世界を思い起こさせる。
 夜香花の鉢が、原中氏の手元にたどり着くまでには、70年前に終戦を迎えた戦争、そして庶民兵士の体験と分かちがたく結びついている。

 「小竹町の『兵士庶民の戦争資料館』の主催者だった武富登巳男さん(故人)が、鞍手町在住の方が遺骨収集のために訪れたインドネシアから許可を得て持ち帰ったものを鉢分けしてもらい、それを枝分けしたものをいただいたもの」と、原中氏は由来を語った。
 インドネシアは、当時のオランダ領東インド。太平洋戦争で日本軍は、朝鮮半島の植民地支配、日中戦争の長期化を経て、南方武力進出、対米戦争へと進んだ。日本軍はビルマ、インドネシアやニューギニアまで勢力を拡大し、南方戦線は、最大の激戦地の一つとなり、物資補給路も制海権・制空権も失い、死への敗走の悲劇の地となった。
 1943年2月、ガダルカナル島撤退、同年11月、タラワ島玉砕、44年3月、インパール作戦、同年7月サイパン島陥落…。東部ニューギニアでは、当初投入された14万の兵力のうち10万人の将兵が戦死。うち餓死・病死が9割にのぼった(川田稔著『昭和陸軍全史3』)。

花が開き香りを放つ夜香花<

花が開き香りを放つ夜香花

 「日本軍が敗走を続けるなか、多くの兵士は交戦ではなく、マラリアなどの疫病、食料難による餓死で命を奪われた」。原中氏は、戦争体験者から聞いた話を思い返しながら、話を続けた。「倒れた戦友を連れて帰ることもできず、その亡骸を埋めたのが、この夜香花の根元だったと言います。戦友を埋め、移動を始めるのですが、いつまでも夜香花の香りが生者の後を追い、まるで亡霊が付きまとうかのようだったといいます」。

 付きまとう夜香花の香りと、月明かりもない真っ暗なジャングルのなかで薄明りを灯したように暗闇に浮かび上がった夜香花。その香りは、原中氏の言葉を借りれば、「バラのような華やかさではなく、ランのような甘美さではなく、ユリのような艶やかさでもなく、モクセイのような郷愁さもない」。
 妖艶な、「死者の魂の匂い」でもあると表現する。
 「8月に夜香花が咲き、この香りをかぐと、『あの戦争を忘れるな』と語り伝えていると思うのです」。原中氏の言葉に、うなずく8月の夜だった。

【山本 弘之】

 

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