2024年12月24日( 火 )

知っておきたい哲学の常識―日常篇(6)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

人間は動物 生き物はあわれ

福岡市 地下鉄 イメージ    ウクライナ戦争が始まって数カ月経ったころ、福岡市内で地下鉄に乗っていたら、隣に座っていた男性が「人間って、ちっとも進歩しないな」と新聞を見ながらひとり言のように言った。思わず「本当ですね」と言いたくなった。

 この戦争についてはプーチンのロシアが悪いと相場が決まっているが、ロシアにはロシアの言い分もあろう。この戦争はアメリカが仕掛けたものだという意見もある。いずれにしても、この戦争が人類レベルで語られることは案外に少ない。そういうわけで、地下鉄で隣り合ったあの男性の言葉は今も忘れられない。

 科学がいくら発達しようと、どんなに深遠な哲学思想が生まれようと、人類史は変わらない。生存のために競争し、他者を排除して少しでも自分の生存領域を広げようとする。子孫を残し、自分が死んでも己の血統だけは絶えないようにと必死に闘うのだ。

 もちろん、知恵のついた動物であるから、なにをするにも理屈をつけて自己正当化をはかる。そこが動物一般と異なるところだ。だが、本質は動物なので、そうした理屈はいつか剥がれる。

 先の地下鉄で出会った男性の発言だが、「人間って、ちっとも進歩しないな」とは人類がいつまでも動物であることを言ったものだ。ネアンデルタールよりは進化したかもしれないが、ホモサピエンスは昔も今もホモサピエンスであることに変わりなく、言語をもち、文化を形成し、文明を構築したといっても、生物的には変わっていないのだ。

 問題は動物でありながら、動物ではないと言いたがる妙な傾向にある。ほかの動物にはない言語、抽象的な言語をもつことで、数学だの科学だの哲学だのを構築し、それに基づいて自然を征服し、思うままにしようと欲張ってしまうのだ。この傾向はとどまるところを知らず、原子爆弾のつぎは水素爆弾、そのつぎはというふうにエスカレートしていく。ところが根は動物だから、生存のためには他者の抹殺も辞さないのだ。

 このアンバランスな本質がますます露骨になるのを見て、人類の将来を悲観する向きもある。私が個人的に出会った人のなかでは、動物言語学者の岡ノ谷一夫氏がそのひとりで、彼は「人類は言語をもったがゆえに大変な進歩をしたんですけど、その言語のせいで、やがて滅びるでしょう」と言った。言語は魔物なのである。

 ウクライナ戦争に話を戻せば、この戦争はあらゆる戦争の悲劇を背負っており、派遣されて人を殺し、自分も殺されてしまう兵士たちがそれを体感しているにちがいない。21世紀にもなって、ドローンで爆撃する時代なのに、生身の兵士たちが異国の地に赴いて殺戮を命ぜられ、運が悪ければ敵の銃弾に倒れるのだ。

 一方、その兵士たちに母国を侵され、さらには命を奪われるウクライナ人たちも悲惨である。このような戦争が科学技術の格段に進歩した現代に起こり得るとは、誰も思っていなかったのではないだろうか。

 しかし、私たちはこの戦争の本質を見るよりは、今日はどこどこにロシア軍が侵攻したとか、そこで何人の死者が出たとか、そうしたことのみニュースで知らされる。これでは戦争の何たるかはわからない。

 そのような時代に戦争の何たるかを如実に描いた映画が登場した。戦争の傷を深く負った、しかも加害者の烙印を押されたドイツでつくられた、『西部戦線異状なし』がそれである。つい昨年つくられたというこの作品は、その戦闘場面のリアルな描写によって、戦争というものが実際にはいかに悲惨なものかを余すところなく伝える。必見の名作というべきだ。

 監督のベルガーはいう、「私たちドイツ人にとって戦争とは悲しみ・恥・不幸・死・破壊そして罪悪以外ではない。そこには肯定的なものも、英雄的なものもまったくない。どちらの側であろうと死は死であり、単に恐ろしい。死ぬのは1人ひとりの人間なのだ。」

 まさにその通りの戦争観が、この映画に反映されている。

 つい先週のことだ。久しぶりに奈良へ行った。大和文華館という小さな博物館で狩野元信の屏風絵を見た後、時間があったので秋篠寺へ行ってみた。週末なのにほとんど人がいない。有名な伎芸天の彫像をゆっくり眺めることができた。

 堂に入って伎芸天のすぐ近くに立っていると、背後でお鈴の透きとおった音が響く。静けさのなかを伝ってきたのである。見れば、まだ三十代と見える男性が深々と仏像に向かって頭を下げている。この人、一体どんな悩みがあってここまできたのか。

 伎芸天はそのやわらかい肢体も美しいが、柔和な微笑がすばらしい。その微笑はすべてを受け入れているように見えるのだが、どこか寂しげでもある。人間という動物の愚かさを、これも生き物として仕方のないことと受け止めつつ、生き物すべての性根を憐れんでいるかに見えた。人類はいつか滅びても、この微笑だけは残るのではないだろうかと思った。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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