知っておきたい哲学の常識―日常篇(7)
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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏
君は歌を詠めるか?
先日、知り合いのピアニストの女性がこんなことを言っていた。「カラオケというのは悪いものではないんですよ。声を出して歌うのは健康にいいし、それに鬱屈した気持ちを発散させる効果もあるんです。」なるほど、歌うことにはいろいろよい効果があるようだ。
しかしながら、カラオケで歌って楽しむのは歌う本人で、他人の歌うのを聴いて楽しいと思う人は案外少ないようだ。プロの歌手が舞台で歌うのを直接聴いてこそ、歌を聴く楽しみがあるという人が多い。
動物言語学者の岡ノ谷一夫(おかのや・かずお)は歌の根源を鳥のさえずりと考えているだけでなく、人類の言語の起源が鳥のさえずりにあるという説を立てている。鳥のさえずりは親から子へと伝授されるもので、それぞれの鳥は独自の歌をもっており、しかもそのさえずりには一定のメロディーと規則性があるので、同類の鳥たちに伝わる言語になっているというのだ。つまり、そこには独自性と公共性が両方ともあり、しかも文法もあることになる。
面白いのは、鳥がさえずるのは異性を惹きつけようとするときと、我が陣地のありかを公に宣言するときの2つだということである。人間でいえば、恋歌か凱歌ということになろう。歌というものは、私たちの感情が特別に高ぶったときに歌われるもので、歌とは感情表現の最たるものということになる。
どなったり、わめいたりも感情表現ではあろうけれど、歌に比べれば直接的すぎて聴く人の共感を得られない。歌はそうした怒声よりワンランク上のもので、そうした高次の感情表現が言語の根源だとするなら、言語とはもともと感情表現の進化したものだったのである。
歌が言語の起源だという説は18世紀ヨーロッパのルソーの説でもあった。「人間は話す代わりにまず歌っていた」と彼は言っている。もっとも、これが本当かどうかはあやしいというのも、鳥にしても、さえずるばかりでなく、「地鳴き」といってメロディーにとぼしい鳴き方もあり、それによって情報伝達をしているからである。
すなわち、「今夜はここで休もう」とか、「この辺は危険だぞ」という情報を共有するときには、地鳴きをする。さえずるのは特別なときだけで、恋情の表明か、己の場所の確保を喜ぶときに限られるのだ。ルソーの発想は面白いし、はっとさせられもするが、十分な根拠はなかったようだ。
とはいえ、歌うという行為が私たちにとって格別なものであることはたしかだ。歌を歌わない民族などどこにもいないし、式典や祭典に歌はつき物である。アイヌの口承文学では歌が長編物語になっており、平家物語の語りにもメロディーとリズムがある。歌は物語文学の真髄であり、それがオペラとかミュージカルにもなったのである。
ルソーとほぼ同時代の日本人、本居宣長(もとおり・のりなが)は、「歌を詠めない人は人ではない」とまで言っている。人が人となるには歌をつくれなくてはならず、それは習得しなくてはできないことだと言っているのである。習得するのは己の感情の表現の仕方であって、歌の内容は自分でつくらなくてはならない。それを彼は「歌を詠む」と言ったのである。
つまり、彼のいう歌は即興表現のことであり、すでに存在する歌を声を出して歌うこととはちがう。カラオケで歌うのでは「歌を詠む」ことにはならないのである。
では、宣長はどうして「歌を詠めなくては人になれない」と言ったのか。これについては現代の脳科学者ダマシオの説が参考になる。ダマシオによれば、生物は外界の刺激に反射的に反応する。たとえば、危険が近づくと足がすくみ、全身が緊張する。この緊張が恐怖を引き起こすのだ。
一般の動物の場合はそこで終わるが、人間のように脳が発達した動物はこの恐怖を意識して、それを感情に変換する。そこに人間らしさが生まれるというわけだ。
では、このように身体的な反応を意識することによって感情に変換することで、人間は何を得られるのか。ダマシオによれば、人間は感情をもち、それを言語あるいは別の手段で表現できるようになることで社会生活を営めるようになり、そこで初めて理性的に考えることもできるようになるのである。
これを宣長風にいえば、歌を詠むことで人は社会生活を営めるようになり、理知にも目覚めるということになる。確かに、「歌を詠めなくては人になれない」のである。
宣長は同時にまた、「歌を詠む」のは恋をしているときだとも言っている。なぜなら人は恋するとき、感情が多岐にわたって複雑になり、どうしてもそれを表現したくなるからだという。彼の考えをまとめれば、人は恋をしなくては歌を詠むことができず、そうならねば感情を発達させ、理知に目覚めることもないということになる。恋は理知の源なのだ。
以上のことを念頭に置いて、読者諸氏に問いたい。あなたは歌を詠めますか?すなわち、自分の言葉で感情の高ぶりを表現できますか?いや、そもそも恋することができますか?
(つづく)
<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)
1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。関連キーワード
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