2024年10月04日( 金 )

いまも生き続ける「中村哲」 渇いた心を潤し、希望の光で照らすメッセンジャー(前)

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石風社代表/ペシャワール会理事
福元 満治 氏

石風社代表/ペシャワール会理事 福元 満治 氏

 戦火と病禍に蹂躙されるアフガニスタン・パキスタンの国境地帯で、人々の治療にあたりながら医療体制の整備に、次いで、いのちの源となる井戸・用水路の建設に尽力し続けた中村哲医師(1946-2019年)。何者かが放った凶弾により、世界がかれを失ってから丸3年。この間我々は、不幸な分断・格差社会の深化に加え、コロナ禍にまで見舞われた。この世に何か普遍的な価値を帯びるものがあるとすれば、それは“いのちの尊厳”以外のものではあり得ないことを行動で示し続けた中村医師の姿と声が、以前にもまして人々の心を捉えている。30年以上にわたって中村医師の現地活動を支え、その記録を出版し続けてきた石風社・福元満治代表(ペシャワール会理事)に、いまの想いを聞いた。

「著者」「編集者」の関係を超えて

 私が「中村哲」という存在に関わるようになったのは、石風社を立ち上げて7年目、80年代も終わりにさしかかるころでした。

 日本中がバブル景気に沸き返るなか、遠い外国の片隅で医療活動に従事する1人の「奇特なお医者さん」がいることは、かねてから新聞などで知っていました。ただ、貧しい人々、弱っている人々に手を差し伸べるとか、そういう「美しい話」は俺は苦手だな、とも。そんなとき、西日本新聞に連載された中村先生の1つの文章に触れて、衝撃を受けました。そして、ペシャワール会[編集注:中村医師の現地活動を支援するNGO団体、1983年設立]を通じて中村先生とつながり、本を出版することになったんです。

 それから30年あまり、石風社での出版事業のかたわら事務所は会の分室も兼ね、ペシャワール会の広報や事務局長としての業務、会報の編集、中村先生を取り上げる新聞や雑誌、テレビ番組や講演会のマネジメント、記者会見のセッティング等々、本当にいろいろな角度から先生の活動に同道させていただいたものだと、改めて思います。

 ひたすら先生が書かれたものを柱とする広報活動に打ち込む日々でしたが、うちで出版したものはもちろん、他社が手がけたものもそのほとんどの編集を手伝い校正も行い、新聞・雑誌の先生の原稿にもすべて目を通しました。

 日本と現地も20回以上往復しました。おそらくこの人とは単なる「著者」と「編集者」という関係では終わるまい──初めのころからそんな予感がしていたんですが、予感は当たったということになりますね。

このひとの本を私の手で出版したい

 中村先生の「専属編集者」としての私のこの半生は、なにもかも成り行き任せでやってきた若き日々のうちに、ひそかに準備されていたことかもしれません。

 高校卒業後、1966年に熊本大学に進学しましたが、その数年後に全共闘運動が起こりました。それまではヨット部に所属する能天気な学生でしたが、時代の風に巻き込まれたのか、シーズンオフで大学との大衆団交の場に居合わせて、主将が工学部の委員長になり、副将の私も法文学部の副委員長をやることになりました。

 水俣病闘争に関わることになったのも、69年に水俣病の患者さんたちが提訴した裁判に関わっていた法学部の友人がいたからです。深入りするつもりはなかったのですが、これまたひょんな成り行きで、東京の厚生省占拠──大企業が利益追求の過程で犯した、漁民に対する犯罪であるにもかかわらず、旧厚生省の補償処理委員会は非常に低額の補償金で決着させようとしている、その理不尽を実力で阻止しようとして13人が逮捕された出来事──の実働部隊の一員となりました。その後、ご主人が病になり働き手を失った水俣の漁師の家に短期ですが住み込み、漁を手伝ったり(ヨット部での操舵の技能は、ここで役立つことになりました(笑))子どもたちの世話をしたりもしました。

 こうして「運動」の渦中に身を置きつつも、どこか違和感もありました。革命幻想に憑かれ、イデオロギーに凝り固まった学生のアジテーションも苦手でしたが、水俣病闘争にしても、これを階級闘争に還元しようとする左翼もいました。でも、裁判だけの闘いでは結局のところ、損害賠償請求事件にとどまらざるを得ない。むしろ、石牟礼道子さんが描く『苦海浄土』の世界、すなわち、歴史の表舞台に上ることはないけれど、人類史の基底をなす、名もない人々の魂の深さというものがたしかに存在すること、それを表現することができて、始めて被害者たちの積年の想いが報われるのではないか。まさにそれをチッソとの直接闘争のなかで模索していくことを提唱したのが、思想家の渡辺京二さんでした。

 結審後、渡辺さんは石牟礼さん、松浦豊敏さんと一緒に熊本で雑誌『暗河(くらごう)』を立ち上げます。日本の政治システムとか資本制の矛盾とか、そういうことに異議申し立てをする「市民運動」なるものに心が動かなくなっていた私は、大学へは戻らず、その編集作業を手伝うことになりました。そして、雑誌の版元を引き受けていた福岡市内の出版社に、渡辺さんに紹介されるまま、編集者として勤めることになったんです―正規のトレーニングを受けたわけでもなく、履歴書1枚書くこともなく。そこでの7年半を経て、81年に石風社を立ち上げたというわけです。

 とはいえ、本当に、志もなければ見通しもない日々でした。前の出版社では、気がつけば何十冊も本をつくっていましたし、山本作兵衛さん、菊畑茂久馬さん、森崎和江さんといった方々との貴重な出会いもありましたが、仕事が終わると飲み屋で仲間とグダグダ深酒するのが日課でしたね。

 石風社も、つくるべきはどんな本か、なんのビジョンもないまま始めたというのが本当のところです。そんなときに87年に出会ったのが、先にお話しした、西日本新聞連載の中村先生の文章だったんです。

 中村先生が現地で接した、ハンセン病に冒されたアフガン難民の少年の話でした。回診のとき、「おい、生きてるかい」と声をかけたところ、少年は「生きているけれど私の命は完全ではないのです」と老人のように答える。中村先生はハッとして、かれと対話を重ねていく。その哲学的ともいえるやりとりを経て、この少年には希望をもたせなければならないと結ぶ、というものでした。読みながら自分のなかで沈滞していた血がざわざわと身体中をめぐってくるのを感じました。そしてこう思ったんです。このひとの本を出したい、他の誰にも出させたくない、と。そして出版したのが中村医師の第一作『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』でした。

(つづく)

【黒川 晶】


<プロフィール>
福元 満治
(ふくもと・みつじ)
1948年鹿児島市生まれ。図書出版石風社代表、ペシャワール会理事(前事務局長)。著書に『伏流の思考  私のアフガンノート』『出版屋(ほんや)の考え休むににたり』など。

(後)

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