2024年10月04日( 金 )

いまも生き続ける「中村哲」 渇いた心を潤し、希望の光で照らすメッセンジャー(後)

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石風社代表/ペシャワール会理事
福元 満治 氏

 戦火と病禍に蹂躙されるアフガニスタン・パキスタンの国境地帯で、人々の治療にあたりながら医療体制の整備に、次いで、いのちの源となる井戸・用水路の建設に尽力し続けた中村哲医師(1946-2019年)。何者かが放った凶弾により、世界がかれを失ってから丸3年。この間我々は、不幸な分断・格差社会の深化に加え、コロナ禍にまで見舞われた。この世に何か普遍的な価値を帯びるものがあるとすれば、それは“いのちの尊厳”以外のものではあり得ないことを行動で示し続けた中村医師の姿と声が、以前にもまして人々の心を捉えている。30年以上にわたって中村医師の現地活動を支え、その記録を出版し続けてきた石風社・福元満治代表(ペシャワール会理事)に、いまの想いを聞いた。

「てっちゃん」から「中村哲」へ

 おそらく、私はそのとき、中村先生に嫉妬したんだと思います。先生がアフガン難民や患者たちととり結ぶ、その<関係の深さ>に嫉妬したんだと。

 市民社会というのは、人間の権利を含めた利害の調整システムで、人間関係が計量化されどんどん希薄になっていきますよね。高度消費社会の急激な深化の過程で、個人は企業で使いやすい、極めて平準化された在り方がよしとされ、人々も自らそれを内面化して、豊かでも幸せでもない社会が生成されていく。こういう流れに抗おうとして、逆に袋小路に陥ったのが学生運動だったわけですが、中村先生の文章を通じて1つの方向をみた気がしたんですね。縁あって手がけるようになった出版という事業でひとつの指針が与えられたといえるかもしれません。

 実際、たしかな手応えがありました。会報発行を定期化し、同時に、ハンセン病の治療と撲滅計画からスタートし、井戸掘り、用水路の建設、農業支援というふうに、先生が現地で一歩一歩進めていくプロジェクトを先生自身の言葉で伝える書籍を継続的に出すことによって、これに共感する人たちが増えていく。その様子を見て多くのメディアも関心をもち、共感のさらなる広がりを後押しする。中村先生が現地で感じ取っているものを感じ取る/取ろうとする人々の輪は、こうした循環のうちに拡大していきました。

 それはまた、先生の活動を支える「支援」の意味合いが変わることでもありました。ペシャワール会はもともと、かれの学生時代の同級生たち、かれが所属していたプロテスタント教会の関係者、そしてかれの登山仲間という、3つの友人グループが母体となって結成されたものです。それがいまや、中村医師の事業に共感する幅広い人々の参加と支援を集める国際団体へと成長している。つまり、応援する対象が「てっちゃん」から「中村哲の事業」を介したなにかへと昇華していったわけです。

 中村先生と私とは最後まで「中村先生」「福元さん」の仲でしたが、私たち2人の「著者と編集者とでは終わらない関係」が、このような流れをつくる小さなエンジンの1つになれたことに、それなりの充実感を感じています。

医は国境を越えて
1999年

貧困・戦争・民族の対立・近代化─世界のあらゆる矛盾が噴き出す文明の十字路で、ハンセン病の治療と、峻険な山岳地帯の無医村診療を15年にわたって続ける1人の日本人医師の苦闘の記録(石風社HPより)。

 


医者 井戸を掘る
アフガン旱魃との闘い

2001年

【2002年日本ジャーナリスト会議賞受賞】 大仏破壊、同時テロ、そして報復。……混迷窮まるアフガニスタン。そこでは戦乱と大旱魃のなかで400万人が餓死線上にあった。現地で六百本の井戸を掘り、大旱魃と闘い続ける─日本人医師の緊急レポート(石風社HPより)。

 


医者、用水路を拓く
アフガンの大地から世界の虚構に挑む

2007年

白衣を脱ぎ、メスを重機のレバーに代え、大地の医者となる。─パキスタン・アフガニスタンで1984年から診療を続ける医者が、戦乱と大旱魃のなか、1500本の井戸を掘り、13kmの用水路を拓(ひら)く。「国際社会」という虚構に惑わされず、真に世界の実相を読み解くために記された渾身の報告(石風社HPより)。

「中村哲の発見」に終わりはない

 中村先生はあの銃撃事件で亡くなられてしまいましたが、今後も世の中で大きな出来事があるたびに、また、人々が各々の人生を歩む、その道のりの折々に、「中村哲」はよみがえり続けていくんだと思います。

 かれの葬儀にも西南学院大学でのお別れ会にも、会場に入りきれないほど、たくさんの人たちが駆けつけました。西南学院大学では教室も動員して2,400人のキャパを確保したのですが、それでも入れない人々でキャンパス周辺は溢れかえりました。最終的には5,000人以上を数えたと聞いています。そのなかには、中村先生とその活動に共感してきた人のみならず、事件を契機にかれと出会った人たちもたくさんいました。

 9.11事件を契機に「テロとの戦い」が喧伝され、中村先生が活動する地域に先進国の暴力がふるわれるようになったとき、私は「日本中が中村哲を発見した」と書いたことがあるんですが、まさにそれが今後も繰り返され続けるだろうと思うんです。

 今年[2022年]もまた、中村先生のドキュメンタリー映画[『荒野に希望の灯をともす―医師・中村哲 現地活動35年の軌跡』谷津賢二監督、日本電波ニュース社]がつくられて、異例のロングランを続けていますよね。その背景には、現代日本社会の息苦しさがあるのでしょう。政治とか経済とか国防とか、そういう問題ばかりが議論されますが、その社会をつくっている個々の人々は、自分の外側にある根拠のないガイドラインにはめ込まれて生きている。そこでは個人は数値化され定量化され消費される、ただのデータとしか扱われない。

 今回の映画は、これまで数多くつくられてきた映像作品とは異なり、中村先生の活動を先生自身の言葉で語るつくりになっています。声高に平和を訴えるわけでもない、自分が貧しい人を救うんだなんて息巻いているわけでもない。先生のあのボソボソっとした語り口が先生の人柄をよく伝え、不自由さや心の飢えを感じている人々の乾いた心にすーっと入ってくるんだと思います。荒れた大地に水が染み込むように。それが人々の足を劇場に向かわせるのではないでしょうか。

 中村先生は深く思索し実践する人でした。システムとしての社会の矛盾を追及するだけでは、幸せな社会はつくれない。中村先生は現地でしばしば、あなたは異教徒なのになぜ私たちムスリムのためにそんなにしてくれるのかと聞かれたそうですが、それに対する先生の言葉はとても大事な視点を示してくれているように思います。あそこにそびえ立つヒンズークッシュの山を見よ、あの真っ白い頂を。イスラム教徒だろうがクリスチャンだろうが仏教徒だろうが、あれは誰の目にも同じ「聖なるもの」ではないか、と。

(了)

【黒川 晶】


<プロフィール>
石風社 福元満治氏福元 満治
(ふくもと・みつじ)
1948年鹿児島市生まれ。図書出版石風社代表、ペシャワール会理事(前事務局長)。著書に『伏流の思考  私のアフガンノート』『出版屋(ほんや)の考え休むににたり』など。

(前)

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