2024年12月24日( 火 )

知っておきたい哲学の常識(36)─現代篇(6)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

人類はそれほど賢くない

滅亡 イメージ    丸山茂徳監修の地球史ビデオによると、地球はやがて滅亡する。太陽も太陽系も消失する。これが天体の運命であり、自然の摂理である。

 しかし、人類の叡智は人為的に生命を創造し、その生命体を地球外に送り出すことができるから、生命そのものは終わらない。これがそのビデオの締めくくりである。見る者に安心を与える終わり方だが、はたしてそうなるだろうか?

 人類学者のレヴィ=ストロースは「地球は人類なしに始まり、人類なしに終わるだろう」と言った。私にはこちらのほうが現実的に思える。丸山が言うほどに人類は賢いとは思えない。

 地球が誕生したときにはまだ生物はいなかったのだから、生命の誕生はある時点で起こったことになる。誕生したものは死が運命づけられている。だから生命はいつか消滅するだろう。そして、地球もいつか終わる。

 レヴィ=ストロースは文明社会に蔓延する根拠なき楽観主義に嫌気が差していたようだ。にがりきった顔で、ホラを吹くのはいい加減にしてほしいと言っているかに見える。彼によれば、人類の叡智はブッダに集約されている。ブッダは神の存在など考えず、信仰も求めず、すべてを分析しつくし、この世の一切が常に変化し続け、今ここにあると思っているものも一瞬のうちに消え去り、永続するものなど1つもないことを見きわめた。これが叡智とすると、科学も哲学もつかの間の慰みにすぎなくなる。

 もちろん、芸術も詩歌も同様だ。だが、それでも生き物は子孫になにかを残そうとする。それが一体なんのためなのか、分かっているわけではない。

 パリでレヴィ=ストロースと会う機会が一度だけあった。「未開社会と文明社会の違いは結局なんですか?」と尋ねると、「未開社会は未開ではありません。人間と環境の調和を保つよう努力している社会のことを、私たちは未開だと思い込んできたんです。文明社会は環境を壊すことで人間を地球の中心に据えようとします。賢くないですね」と答えてくれた。

 「日本には未開の部分と文明の部分が同居していると思うのですが」と聞いてみると、「そのバランスが大事なんです。過去の日本はそれを何とか保ってきた。しかし、これからはどうなるか」と逆に問われる。「難しい局面にきていると思います」と必死に答えると、「これからが踏ん張りどころですね」と言われた。あっさりした言い方だったが、後々まで私の胸中で響いた。

 会ってくれた礼を言って帰るとき、彼と握手を交わした。その手がおどろくほど冷たかった。この手で少年のころはパリのアパートの片隅で木の切れ端で楽器をつくったり、アマゾンの森林の奥で自らの手を絵に描いてみたりしたのだと思った。

 「文明」と「未開」ということでいえば、彼は「未開社会」が消滅すれば、人類も消滅すると見ていた。「文明」はその原点である「未開」を破壊することで自滅する、なのにそれに気づいていない、と見ていたのだ。

 では、私たちはそうした運命を手をこまねいて見ることしかできないのか。彼は慈善事業家ではなかった。滅びゆく民族のために募金活動をしましょうなどとは言わなかった。ただ、そうした民族が少しでも長らえて人類の原点を示し続けてくれるようにと、ユネスコにはたらきかけただけである。

 彼は手仕事を重視した。機械を使わず、手でなにかをこしらえる。工作キットを使わず、ありったけのものを工夫して使う。これが大事だと強調した。手仕事、菜園づくり、植物や犬や猫との共生。「芸術」といったものを意識しない絵描きや楽器の演奏。これらは文明人のホビーではない、人類にとってもっと本質的なものだ、そう思っていたのである。

 彼にとって、人類に残された時間は少なかった。ひたすら進歩しようと焦っているそのことが、人類の余命の短さを示していると見ていた。行く手には絶滅しかないということを人類は心のどこかで感じている。しかし、そこで立ち止まって考えるのではなく、心の声に耳を傾けることなく、ひたすら邁進し続けるのである。

 彼は言った、「立ち止まって陽の光を身体で感じ、道端の猫と眼差しを交わすひとときをもちなさい」と。

 そういえば、パリで彼と会ったときに、私はもう1つ質問をしていた。「先生の書いたものは、少しは世の中に変化をもたらしたんでしょうか?」彼は静かに首を横に振って、「少しも」と答えた。

 その時から30年が経つ。私はいま知里幸恵の『アイヌ神謡集』を手にしている。日本人が文明人を気取って滅ぼした民族の歌である。その歌には人類の原点が確実に刻まれている。これが日本語になって残されたこと自体、ひとつの奇跡であるように思える。

 アイヌ社会は文字をもたず、「未開」であった。文字の存在を知らなかったのではなく、もたないことを選択したのだ。持てば必ず社会と自然の均衡が崩れる。それを直覚し、自然と人間のあるべき関係を保とうとしたのである。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

(35)
(37)

関連記事