2024年12月24日( 火 )

知っておきたい哲学の常識(37)─現代篇(7)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

他者と他人、どうちがう?

二度と同じところへは戻れない    日本語では自分以外の人のことを「他人」という。では「他人」の反対語は「自分」かというと、そうでもない。「身内」という。「他人」は排除の対象である。

 では「他者」は?そんな言葉は本でしか見ない。日本語に定着していない。精神分析家のラカンか、倫理思想家のレヴィナスの用語の翻訳だろう。

 ラカンのいう「他者」は大文字で出てくる。個々の他者ではなく、「自分ではない存在」という広い意味である。この大文字の他者との関係のなかで、自我は形成されるというのである。

 子どもにとっては親や兄弟が他者との出会いの始まりであるが、まだ言葉を話せないうちは自分と他者の区別はつかない。自他同一の段階である。

 それが言葉を覚えて自他の区別がつくようになる。徐々に、自分と他者のちがいもわかってくる。しかし、自他同一の段階の甘美さは忘れられない。そこで甘えようとしたり、わがままになったりするのだが、他者は必ずしもそれを許さない。そこで葛藤が始まる。

 大人になるとは、この葛藤を引き受けることであり、自己と他者との関係のなかで自己をつくり直すことなのである。

 以上のことは当たり前のことであって、そこに特別なものはない。ないのだが、それでも人はこれを忘れる。そして、他者との関係を煩わしく思い、もっと楽しい別の関係がほしくなる。

 しかし、その楽しい関係は、実は幼少期に脱したはずの自他同一の楽しさの代用品であって、決して心を満たさない。二度と同じところへは戻れないのだ。大人になるとは、この真実を受け入れることだ。

 だいぶ前に見た香港のヤクザ映画で忘れられない場面がある。ひとり娘を暴力団に殺された元ヤクザの親分が、いつまでも死んだ娘の肖像写真を拝んでいる。そこへやってきた若い元子分が、その写真を破り捨てる。元親分が仰天してその元子分を見つめると、「親分、いつまでも写真にしがみついてどうするんです。娘さんは帰ってこない。親分らしくねえですぜ。写真なんか捨てて、やるべきことをやらにゃ」と言葉を返すのだ。もう一度軍団を立て直し、復讐をしましょうというわけだ。

 この場面が忘れられないのは、写真を見て失われた過去にしがみつくより、現実のなかで自己を立て直せという考えを鮮明に打ち出しているからだ。自他同一の幸福は二度と戻らない。ならば、幸福を新たに創造しなくてはならないのだ。

 レヴィナスのいう「他者」は、ラカンのそれとはちがう。いや、誰のそれともちがう。私はこれを知ったとき、目から鱗が落ちる思いがした。

 レヴィナス曰く、他者とは自分とは異なるから他者である。当たり前じゃないかと言うなかれ。人は誰しも自分と似たものを他者に求める。だが、そのような他者は、ほんとうの他者ではなくて、自分のなかに取り込んだ他者であり、取り込んだ時点で、その他者は他者でなく自分なのである。これでは本当の関係はできない。他者を他者として、自分とは切り離した存在として尊重してこそ、本当の関係が築けるというものである。

 目から鱗が落ちたというのも、私はそのように他者を考えたことがなかったからだ。普通、ある人が自分との接点がまったくなかったなら、その人は私にとって存在していないも同然である。ところがレヴィナスは、それでは人との関係は築けないと言っているのだ。

 なるほど、「自分と接点がある、気が合うな」と思っていた人が、あるとき別の面を見せる。すると急に白ける。距離を感じる。そして徐々に疎遠になる。そういう経験を何度もすると、これは自分にも問題があると思えてくるのだが、その問題の核心をレヴィナスは衝いているのだ。

 レヴィナスの言葉で一番強烈に残っているのは以下のものだ。「他者は理解できない。理解するということは、他者を自分のものにしてしまうということで、それができないからこそ他者は他者なのである。」

 私たちは人さまの前でいい顔をしたがる。少し変な人間が現れると、理解しあげなくちゃいけないと思ったりする。しかし、レヴィナスふうに言うなら、そういう態度が傲慢であり、自己中心なのである。

 理解できないとは、自分にはおよばないということだ。自分にはおよばないと感じることは、自分より上だと感じることである。レヴィナスはそのように他者を感じることが人間関係で最も重要だというのである。

 明治のころの言葉で「異人」という言葉があった。レヴィナスのいう「他者」は「異人」がぴったりだと思う。「異人さんに連れられて行っちゃった」という童謡では、「異人」は恐ろしい存在だ。しかし、「異人」とは自分あるいは自分たちとは異なった存在であり、それでもやはり人であるという意味である。

 これを古風にいえば、「まれびと」である。「まれびと」は沖縄や奄美では神さまである。私たちの心の奥に「まれびと」への畏怖がある。この畏怖こそがレヴィナスの他者論の核となっているように思える。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

(36)
(38)

関連記事