2024年12月22日( 日 )

ラーメンチェーン幸楽苑HD、創業社長復帰 2代目社長の失敗(前)

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 現役をいったん退いていた創業者の社長復帰の記事をよく目にする。創業者の復帰で大胆な改革が期待できるが、半面、後継者育成がうまくいってない表れである。東証プライム上場のラーメン店チェーンの(株)幸楽苑ホールディングス(HD)では、49歳の息子がやっていることに腹に据えかねて、79歳の父親が社長に復帰する。2代目社長は何に失敗したのか。

ラーメンチェーンでは幸楽苑が1人負け

幸楽苑 セットランチ イメージ    (株)幸楽苑ホールディングス(HD、福島県郡山市)は5月15日、新井田昇社長(49)が6月23日に退任し、父親で創業者の新井田伝氏(79)が会長兼社長に就任すると発表した。報道各社が一斉に報じた。

 伝(つたえ)氏は21年に会長を退任し相談役として一線を退いていた。それが2年で経営トップに復帰するというのだ。引退していた創業社長が経営トップに復帰するのは、会社が経営危機に陥っているケースが多い。幸楽苑HDもまた然りだ。

 同HDは、新型コロナの感染が拡大した20年以降は経営状況が悪化していた。23年3月期連結決算は、売上高は前期比1.8%増の254億円と若干持ち直したものの、本業の儲けを示す営業利益は16億円の赤字(前期は20億円の赤字)、純利益は28億円の赤字(前期は3億円の黒字)に転落した。

 コロナ禍は外食に深刻な打撃を与えたといえなくもないが、必ずしもそうではない。ライバルである低価格ラーメンチェーン「熱烈中華食堂日高屋」を運営するハイデイ日高(東証プライム上場)はコロナ禍を乗り切っている。

 日高屋はコロナ禍が直撃した21年2月期に29億円の赤字に陥ったが、翌22年2月期には黒字に転換し、23年2月期も15億円の黒字を継続した。

 博多豚骨ラーメンチェーン「一風堂」を展開する力の源ホールディングス(東証プライム上場)の23年2月期連結決算は、売上高が前期比34.6%増の261億円、営業利益は同2.1倍の22億円、純利益が同76.3%増の16億円と増収・増益。海外店舗が好調だった。

 多くの外食企業がV字回復をはたしているなかで、幸楽苑は1人負けだ。なぜか。幸楽苑の歴史を振り返ってみよう。

「チェーンストア業界の父」渥美俊一氏の薫陶を得て急成長を遂げる

 幸楽苑は1954年、電力会社を定年退職した新井田司氏が福島県会津若松市で食堂を開業したのが始まり。伝氏が18歳のとき、父の食堂を継ぎ、上京して修行。修行先の1つである「幸楽飯店」から2文字もらい、帰郷後、「幸楽苑」を開業する。70年11月に株式会社に改組した。

 伝氏は『日経ビジネス』(2012年11月23日号)のインタビューで、事業の転換点について、こう語っている。

「壁に突き当たって悩んでいたときに出会ったのが、(流通業界のコンサルタントとして知られる)ペガサスクラブの故・渥美俊一先生の本でした」

 渥美氏は、日本におけるチェーンストア理論の第一人者で、「チェーンストア業界の父」と呼ばれる。ペガサスクラブの設立当初のメンバーは、ダイエーの中内功氏、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏、ジャスコの岡田卓也氏など、後に日本の流通革命を切り拓いた錚々たるメンバーだ。

 ペガサスクラブ門下生の第2世代では、ニトリホールディングスの似鳥昭雄会長が有名だ。似鳥氏は渥美氏を「人生の師」と仰いでおり、渥美氏の死後、自宅を買い取って「渥美俊一記念館」にしたことで知られる。

 伝氏もペガサスクラブの第2世代だ。渥美俊一氏のチェーン展開の教えを忠実に実践。低価格「290円ラーメン」を掲げた「幸楽苑」を郊外に展開し、2003年に外食産業として北海道・東北で初めて東証一部に上場をはたした。

 18年社長を息子に譲り、会長に就いた。21年、会社設立50周年を節目に、完全に引退、相談役に退いていた。お家の大事に社長に復帰するというのである。

叩き上げの父の後を継いだ長男は、高学歴、大商社出身のエリート

 新井田昇社長は伝氏の長男。97年、慶應義塾大学を卒業後、三菱商事に入社。修行を経て、2003年幸楽苑HD入社。海外事業を担当。18年11月、父の後を継いで社長に就いた。

 業績悪化の転換点となったのは19年10月。既存店売上は30.7%減と激減した。これは台風19号の影響が大きい。19年10月12日に、日本に上陸した台風19号は、土砂災害や河川の氾濫などを引き起こし、東日本を中心に各地に甚大な被害をもたらした。「令和元年東日本台風」と命名された。

 幸楽苑HDは福島県郡山市にある工場が冠水被害に遭い、10月13日に操業を停止。これにより東北を中心に240店が休業に追い込まれた。これは全店舗のほぼ半数にあたる。

 翌11月初旬に郡山工場のフル稼働を実現。被災後1カ月で全店通常営業を再開した。だが、休業していたことが影響して、客足は戻らなかった。

(つづく)

【森村 和男】

(後)

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