2024年11月24日( 日 )

電通の外部委調査報告書を読む 「クライアント・ファースト」の原点は「鬼十則」(前)

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 東京五輪・パラリンピックをめぐる一連の事件では、背景に「電通一強」があったと指摘された。なぜ、単なる広告会社を超える存在に育ったのか。
 一連の談合事件を受け、広告最大手の(株)電通グループは6月9日、弁護士ら外部有識者でつくる調査検証委員会(委員長=池上政幸・元大阪高検検事長)の報告書を公表した。談合事件に関与した原因として、「過剰なまでにクライアント・ファーストを偏重する組織風土があった」と結論付けた。かの有名な『鬼十則』が組織風土をつくったのは間違いない。

「クライアント・ファースト」を偏重する組織風土

 調査報告書は「過剰なまでに”クライアント・ファースト”を偏重する組織風土」を最大の問題点として指摘した。

 〈dentsu(電通)はこれまで、クライアントの懐に飛び込み、クライアントが気付いてすらいない真意をも汲み取って、その期待を上回る成果を上げ続け、クライアントとの強い信頼関係を構築することを通じて、広告業界における現在の地位を築き上あげてきた。

 このような仕事に対する積極的な姿勢は、dentsuの競争力の源泉となってきた一方で、ともすると、結果がすべてを正当化するような思考に陥りがちであり、仕事に携わる者の視野を狭め、あるいは近視眼的になってしまうリスクを内包している。

 問題の根底には、このようなリスクへの配慮が疎かになる、いわば過剰なまでに”クライアント・ファースト”を偏重ともいうべき組織の姿勢ないし企業風土があったのではないかと考えられる〉

「クライアント・ファースト」は
創業者・光永星郎氏が社員に課した原点だった

電通本社 イメージ    「クライアント・ファースト」は創業の原点である。
 電通のルーツは世紀元年、1901年創業の電報通信会社。新聞社への広告取次とニュースの配信をしていた。戦後、広告部門が電通に、配信部門が現在の(一社)共同通信社と(株)時事通信社となった。

 舟越健之輔著『われ広告の鬼とならん―電通を世界企業にした男・吉田秀雄』(ポプラ社)から、創業者の人物像を引用する。

 創業者の光永星郎(みつなが・ほしお)氏は、「我々は常に一歩先に進まねばならぬ。併行を以って満足するものは、必ず落伍する」として、社員の駆け足会を発足させた。「走れ、走れ」と言い、得意先を回るときでも、「わき目もふらず、駆ける」ことを課したという。

 朝は、始業時間とともにすぐ広告主のところに行くことを唱え、のんびり社内にたむろし、雑談などで時間を無駄にすることを非常に嫌った。

 新年は払暁戦(ふつぎょうせん、引用者注・払暁は夜の明けがたの意味)に限ると言って、午前3時に新年の仕事始め式を行った。さらには、寒詣り、富士登山などが実施された。寒詣りとは、社員が白装束に身を包み、提灯片手に列をつくり、得意先から得意先へと回り、寒中見舞いを述べるものだ。

 まさに「クライアント・ファースト」が創業の原点だったのだ。

「光永イズム」の体現者・吉田秀雄氏

 「広告の鬼」と呼ばれた吉田秀雄氏は戦後すぐの1947年6月、43歳の若さで社長に就任した。GHQ(連合国軍総司令部)による公職追放で、上田碩三社長が辞任したからだ。

 前出の『われ広告の鬼とならん』によると、1951年7月、東京・銀座の本社6階ホールで日本電報通信社(現・電通)の創立51周年式典が挙行された。本社の社員、幹部約200人を前に吉田社長は挨拶した。

 〈創業の功労者である光永八火(みつなが・はちひ)先生(引用者注・八火は、創業者の光永星郎氏の雅号)はまことに電通の鬼であった。八火先生の眼なかには電通以外なにものもなかった。いくどか倒産の危機にひんしながら、電通の鬼となることによって、その困難を乗り越え、今日の基礎をおつくりになった〉

 吉田氏が、社員の前で「鬼」について語ったのは、この時が最初である。電通の鬼、光永星郎氏の経営理念を反映した社員の心構えが、吉田氏が51年8月に起草した「鬼十則」である。

(つづく)

【森村 和男】

(後)

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