【経営教訓】総括編:家族経営はなぜ破綻したのか タカギ、1,000億円売却という事業承継の真相~髙城寿雄・“カリスマ経営”の結末~
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(株)タカギ
1966年に前身の(株)髙城精機製作所設立、79年(株)タカギ設立、2000年代に営業刷新で飛躍的な成長を遂げたタカギの経営は20年8月~10月の経営異変であっけなく崩壊した。不安定なままに放置された「家族=経営」が、カリスマ経営者の衰えた判断と、介入する人々の思惑によって瓦解していくさまを克明に描く。2848号掲載の『後編:経営崩壊から身売りへ』と合わせてお読みいただきたい。文中敬称略。
黄金株と信託
確立されなかった事業承継2020年8月の経営異変以前まで寿雄が思い描いていた事業承継は、2人の甥が中継ぎとしてしばらくタカギを経営し、いずれ愛息・寿太朗に経営権を移譲させるというものだった。また、寿太朗に経営を移譲させた後も寿太朗への支援を取り付けるために、2人の甥の子どもらに1%ずつ株を分け与えて、将来的には寿太朗を中心に一族で経営を支えることまで構想していた。だが、この事業承継が実現するように寿雄らが周到に準備していたかというと、そうではない。
20年3月末時点のタカギ株式の保有比率(カッコ内は16年)を見ると、寿通商51%(39%)、寿太朗24.1%(22%)、寿雄6.9%(19%)、甥の社長と専務がそれぞれ3%超である。寿雄がタカギ株を寿通商へ動かしているが、寿通商の株は過半数を寿太朗がもっており、承継を進めていることがわかる。ただし、寿雄は寿通商の黄金株(拒否権付株式)をもつことで、万が一、寿太朗の株主権が誤って行使された場合に抑止する手段を確保している。また、寿雄は、自分にもしものことがあった場合、黄金株の議決権を信頼できる人物に委ねることが必要と考えていた。そこで寿雄は、もしもの際は、寿太朗(2001年9月生)が25歳になるまで、黄金株の議決行使権を特定の取締役に委ねることを信託にして契約している。
ところで、この黄金株と信託は何のために設定されたのか。安定した事業承継を進めるために設定されたのではない。主に妻いづみが寿太朗の株を通して寿通商とタカギに介入しないための防衛策として設定された。あくまでも寿雄と妻いづみの個人的対立における防衛策であり、会社の防衛策として寿雄自身を含めた関係者の思惑から事業承継の確実性を確保するためではなかった。
“カリスマ経営者”の弱み
家庭での寿雄の立場寿雄は一代でタカギを築き会社では尊敬を集めるカリスマ経営者である。だが、家庭における彼の立場は決して強いものではない。妻いづみとはしょっちゅう喧嘩しており、たとえば、いづみが行っている障害者福祉事業の赤字補てんを寿通商で行うことなどに、寿雄は不満をもっていた。また、タカギの経営にも介入しようとするいづみを寿雄は信用せず、決して経営にタッチさせようとしなかった。しかし、そうはいうものの寿雄は、寿太朗を生んでくれたいづみとは離れられなかった。また、20歳以上年が離れた夫婦関係では、妻に対する寿雄の立場は年を追って弱まり、80歳を迎えるころから足腰の衰えが顕著になった寿雄は、歩行時には誰かに支えてもらうなどしなければ日常生活もままならなくなり、妻への依存を深めていた。
一方、寿太朗との関係はというと、寿雄は寿太朗に会社の株式だけでなく実質的な経営も承継してもらうことを何よりも願っていたが、まだ10代の寿太朗は必ずしもタカギを継ぎたいとは思っていなかった。高校時代はスイスに留学し、大学はアメリカへの留学を希望する寿太朗は、金融に興味をもち、将来は投資事業(ファンド)に携わることに意欲をもっていた。さらに寿太朗はお母さん子であり、父親の権威で寿太朗をコントロールできない寿雄は、何としても寿太朗に「モノづくりのタカギ」を継いでもらうことに執着していた。
20年4月、寿雄はコロナウイルス感染予防のため出社を取りやめて、社員クラブのもみじ荘で執務を執ることになった。寿雄は19年末に認知症の兆候との診断を受けており、会社から隔絶された限定的な人間関係のなかで、寿雄の認知力は明らかに衰え始めていた。寿太朗はアメリカへの留学予定をコロナで取りやめた。妻いづみも寿太朗がスイスに留学していたコロナ前は家にいないことが多かったが、それも帰ってきて一緒に暮らすようになる。コロナ禍で唐突に生じた一家団欒は、決して寿雄に有利な状況ではなかった。
20年8月 取締役会の背景
寿雄一家に1人の人物が関わり始める。現役のふくおかフィナンシャルグループ(以下、FFG)代表取締役副社長兼福岡銀行代表取締役副頭取であった白川祐治だ。彼は寿太朗の教育係として、いづみの強い希望で寿雄によって社外取締役に推挙された。まさに寿雄一家のために加わった人物である。白川はタカギの主要取引銀行の副頭取であり、実弟がタカギの競合企業TOTOの副社長であることから、潜在的な利益相反性を有するとして、19年の段階ではほかの取締役らから就任を反対されていた。しかし、寿雄の強い意向は変わらず、20年1月からタカギの顧問を務め、6月に社外取締役に就任した。寿雄が白川の取締役就任に固執したもう1つの理由として、北九州商工会議所の会頭就任に向けた地元財界の支援を取り付けるため、北九州における白川の影響力を期待していたとの見方もある。コロナによって寿雄がもみじ荘で執務を執るようになると、白川はそちらへ出入りし、会社から隔離された寿雄と妻いづみとの間で密接な関係をつくった。
経営異変が始まった20年8月27日の取締役会までに、寿雄一家と白川は以下の同意を形成したと推測される。①寿太朗がタカギを継ぐ。②一族・取締役らを含めた株の買い集めを早急に進める。③莫大な費用をかける新社屋建設を凍結する。④黄金株信託を解約する。⑤上場を画策している現経営陣を追い出す。
発端は黄金株信託にあった。いづみは自分の排除を意図して寿雄が信託を契約したことに激怒し、また信託の受託者に取締役らが指定されていることを深読みして、タカギの乗っ取りを企てていると見なしたものと思われる。だが実際には信託で受託者に設定された取締役らは信託の推進に関わっていない。寿雄に無理やり巻き込まれたのである。信託の意図は先述のように寿雄のまったく個人的な妻対策であった。対抗策としていづみらは②~⑤までの要求を一気に寿雄に呑ませるための必殺技を繰り出している。①だ。今まで①について積極的ではなかった寿太朗が寿雄の意向を酌んで「うん」と首肯してくれれば、寿雄はほかに何もいらないのである。20年来の夢である③については、さすがにあきらめることが惜しかった様子だが、⑤についても、誰かに吹き込まれれば受け入れる素地が寿雄のなかにあった。自分がつくった会社が「モノづくりのタカギ」から「営業のタカギ」に転換した違和感、そして衰えが隠せないかつてのカリスマ経営者の猜疑心と嫉妬心、独占欲である。
FFGの白川は何を狙っていたのか
ところで、白川がタカギのお家騒動に手を貸した理由は何なのか。6月にタカギの社外取締役に就任したばかりの白川は、7月の取締役会では膨大な新社屋建設費用の圧縮を求めたのみだったが、取締役会の外では代表社長らの経営を痛烈に批判しており、寿雄の代表会長として実権復活を求める意思表示をしている。しかし、寿雄の認知機能の衰えは明らかであり、代表社長ら現経営陣を追い出した場合に、経営を牽引する者はいない。だが、利益率の高いストックビジネスを確立しているタカギは、経営陣が一時空白になったぐらいで利益は揺るがない。むしろ、社屋建設などの経費を絞ることによって利益の増加すら見込める。現経営陣を追い出せば、衰えた寿雄の信任を背景に、経営に無知ないづみと寿太朗をコントロールすることは白川には造作もないことである。そのようにタカギを手中に収めた白川が次のステップとして狙うのは、FFG子会社のファンド「FFGベンチャービジネスパートナーズ」にタカギを取り込むことではなかったろうか。将来、株式と経営権を握る寿太朗が、自分のファンドを設立するためにFFGとの提携に興味を示し、資金づくりのためにタカギの売却に応じる可能性が高い。FFGと福銀のナンバー2に上り詰めたとはいえ、その後がない白川は、タカギを取り込めばFFG内での立場を再び確保することができる。タカギのファンド売却という未来図は、寿雄一家と白川の間で絵ができたのではないか。ただし寿雄抜きで。
白川といづみの軋轢
経営体制の迷走寿雄、いづみ、白川らは先述の②~④を次々実行に移し、⑤について9月の取締役会で執行役員に就任したいづみと白川は、株の譲渡に一時抵抗した代表社長を解任するために、背任事由を探す目的でデジタルフォレンジックを社内に導入、取締役らのパソコンを取り上げて徹底的にデータの洗い出しを行うなどしたが、結果出てきたのは代表社長のいささか飲みすぎた営業経費だけだった。寿雄らは代表社長の解任をあきらめて、自主的な辞任で手を打った。
こうして旧経営陣を追い出し、20年11月に新経営陣が船出した。いづみの取締役社長就任と、寿太朗の取締役就任である。そして21年1月には寿ホールディングス(20年11月に寿通商から商号変更。以下、寿HD)の黄金株が普通株に戻された。これによって寿雄は株による寿HDとタカギの支配権を失った。寿太朗への株の承継が完成した。
ここでもう1つの事態が発生する。白川といづみの軋轢である。経営に意欲満々であったいづみは、旧経営陣の退陣後、経営に乗り出すが、そのあまりにもいい加減なやり方に白川は我慢がならなかったらしい。白川は取締役会におけるいづみの発言の間違いをたびたび指摘して訂正した。指導に晒されたいづみはしまいに発言できなくなり、もともと気分屋で鬱になりがちな気質であったため、会社に来なくなった。白川はこのときも周囲に、いづみには経営を任せられない旨を広言し、実権を自分に集めようとしている。もともと寿雄はいづみに経営を任せることは否定的であったため、白川は寿雄の信任を背景に自分の出番をつくろうとしていた。
いづみの実権掌握
売却先NSSKとの接点しかし、白川に押し込められたいづみも無策ではなかった。いづみは、白川に取締役会で抑え込まれていることを、以前から懇意にしている福岡財界の重鎮・八頭司正典(セムグループ代表取締役会長)に相談した。八頭司といづみは、寿雄と結婚する前から知る仲である。いづみは旧姓・鶴原、1892年創業の北九州の老舗・鶴原薬品の会長の娘であり、もともと財界重鎮らとつながる素地をもっていた。ちなみに鶴原薬品は1991年時点の売上高130億円、94年に熊本の吉井(売上高368億円、91年時)と合併して鶴原吉井(株)を発足、2006年に東邦薬品(株)に買収され九州東邦(株)となり、医薬品4大卸の1つ東邦HD傘下として一角を担っている。
いづみは、21年6月にタカギの代表権を獲得する。このとき一緒に取締役の清水恭も代表専務となる。いづみに全面的に経営を任せることを否定していた寿雄は、忠実な部下である清水に同じく代表権を与えて、3人代表制とし、いづみに代表権を与えることの妥協案にしたと見られる。ところが、1カ月後に、いづみは白川と清水をまとめて辞任に追い込んだ。いづみは代表権と寿太朗を通したタカギの株、そして寿雄にとって最も大事な寿太朗自身を掌握しており、寿雄に清水と白川を切ることの同意を迫ったと見られる。ひょっとすると新社屋建設工事の再開も条件であったかもしれない。寿雄はすでにかなり前から、前後の記憶の脈絡がはっきりとしないほどに認知症の症状が進んでいた。そのような寿雄に命運を任せ、いづみに逆に手玉に取られた白川の負けだった。そしてまた寿雄も、清水と白川を同時に失い完全に手足をもがれてしまった。
寿雄に対して完全に優位に立ったいづみは、次のステップへ進行した。タカギの売却である。いづみは指南役の八頭司に相談し、八頭司が世話人を務める盛和塾を通して、(株)日本産業推進機構(以下、NSSK)の副会長・石田昭夫につながった。
寿雄は20年8月の経営異変以降、携帯電話を取り上げられるなど、外部と自由な連絡が取れなくなっていたが、22年1月に兄・憲市の自宅を訪ねている。憲市の2人の息子である代表社長と専務を追い出した寿雄であったが、母・清子の位牌に線香をあげることを訪問の口実としている。すでに清水と白川を失い、コロナを理由に自由に外出することもできず、会社での実権を失った寿雄は、会社が鶴原(妻いづみの旧姓)に乗っ取られたと憲市に泣いて訴えた。憲市はすべて寿雄が自分でしたこととして、いったんは追い返したが、それでもタカギの行く末を心配し、元取締役に相談している。
同年7月に憲市が亡くなる。先の話を憲市の遺言と理解した元取締役は葬儀の場で寿雄と2人きりになって話をした。憲市が心配していたことを伝え、寿雄がどうしたいのかを聞いた。すると寿雄は、追い出した甥の1人の名前を挙げて、絞り出すような声で会いたいと言った。しかし、その後、寿雄は自由に外出することもできず、また常に周りをガードされた状態で、甥との対面は叶わなかった。
ちょうど同じ時期、NSSKによるタカギ買収の話は、金融機関の三菱UFJ銀行北九州支店も加わって進展する。23年3月末、NSSKはタカギとの業務提携を発表。6月8日、株式譲受の完了を発表し、同日、寿雄は代表会長ならびに取締役を退任した。
事業承継における危機管理
会社保護のための信託契約ファンドへの売却というタカギの事業承継の結果についての評価は、今後の提携成果次第であるのでここでは問わないとしても、長い時間をかけて培われたタカギの経営体制が20年8月の経営異変で船頭をすべて失い路頭に迷う事態になったことは、企業の危機管理として失敗だった。この失敗を防ぐにはどのような対策が必要だったのか。
タカギが失敗した理由の1つは、事業承継対策としての信託設計の不完全さにある。寿雄が当初想定していた事業承継案は、10年以上かけて完成した経営体制を中継ぎとして利用し、後年、寿太朗が一定の年齢に達した段階で経営権を移譲するという計画だった。事業承継で生じる経営不安定化のリスクを抑える現実的な方法である。また、寿雄にもしものことがあった場合に、タカギの親会社である寿HDの黄金株の議決権が適切に行使されることを信託契約で確保しておけば、タカギの中継ぎ経営は安定し、事業承継は確実に行われるはずだった。しかし、寿雄が実際に行った信託契約では、黄金株の信託をあくまでも個人的な信託スキームにとどめ、本人の意思でいつでも解約できるものとしていたために、結果、経営異変の際に寿雄の同意で解約され、信託機能をはたすことはできなかった。
信託を企業の安定的な事業承継のために機能させるには、信託契約のなかで、弁護士や公正な立場に立つ第三者を信託監督人や指図権者に指定し、信託の委託者(寿雄)が勝手に信託を解約したり、あるいは受託者が勝手な議決権行使をしない仕組みを設けることによって、信託が当初の計画通りに実行されるよう堅牢なものにすることが必要だ。つまり、たとえ株式等の個人資産に関わる信託であっても、企業の事業承継計画の一環として信託スキームを設計するということである。
企業は社会の公器
会社は寿雄の夢そのものタカギは浄水器、散水機、金型製造の3事業で、経済と社会の福祉や生活レベルの向上に貢献してきた。その点で立派に「社会の公器」として役割をはたしてきた。しかし、社会の公器としての姿勢は、外部に対する企業活動ばかりでなく、内部への企業統治においても必要である。寿雄は、中継ぎによる事業承継と一族による経営構想を練っていたころは、末永く家族経営を続けるためには、上場しない場合でも上場企業に準じた統治を企業風土として根付かせる必要があるという意見に耳を傾ける姿勢をもっていた。しかし、そのようなアドバイスを受けても、事業承継のために万全を期した黄金株信託のスキームを提案されても、結局は自分を中心にした緩やかなルールのもとで一族間の信頼関係で運営される家族経営の居心地の良さから脱け出すことはできなかった。また、愛息にすべてを完全承継させたいという個人的な独り善がりが、経営的観点より優先された結果であった。経営者の意識に社会の公器としての自覚が足りなかった。
そうはいっても、タカギは前編から見てきたように家族経営であるからこそ、一丸となって夢を追いかけて、夢を実現した企業だった。寿雄の夢の集大成ともいえるのが新本社建設である。すでに新本社建設工事は再開しているが、経営異変直前の寿雄の夢が最も反映された建設計画は次の通りだ。
開発総面積30万m2、敷地面積16万m2。社屋は鉄筋コンクリート7階建、建築面積1万m2、延床面積6万m2、現在分散しているオフィス、工場、コールセンターを集約するとともに、社屋の6階から7階には1,600m2の多目的ホールを備え、ショールーム、工場見学の機能のほかに、タカギのモノづくりと夢を表現したミュージアムを設ける。付帯施設として研究棟、託児所、屋内体育設備、ソフトボール場、そして19年購入のホンダジェットこそ離着陸できないものの、グライダーなどの離着陸が可能な500m級の滑走路を併設する計画だった。土地の買収交渉に20年以上かけ、総事業費280億円、うち新社屋本体145億円、工場設備55億円。23年の完成を目指していた。寿雄の夢が詰まった新本社である。
また、あるとき、寿雄は、兄弟らに昔の写真を全部出すように話をした。会社の写真ばかりではなく家族のすべての写真まで出させて、複写し、それらを1つのアルバムにまとめさせた。創業50年を記念したアルバムは今も会社にあるという。兄弟創業に始まる髙城精機製作所からタカギに至り300億円企業となるまで、タカギは多くの人に支えられて成長し夢を実現した。寿雄にとって会社は夢を分かち合う大きな家族そのものであった。それが寿雄にとってのタカギであり、最も大切なもう1人の子どもだったのである。
(了)
【寺村朋輝】
<COMPANY INFORMATION>
代 表:髙城いづみ
所在地:北九州市小倉南区石田南2-4-1
設 立:1979年11月
資本金:9,800万円
売上高:(22/3)306億6,574万円法人名
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