2024年12月23日( 月 )

55年連れ添いの伴侶の死から何を学ぶか(4)脳が生きる本能を捨てる悪性病気との闘い

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肉を分け与える

レストラン イメージ    90歳の友人Iに電話をしたのは7月27日のことであった。悦子の逝去のことは、先方はご存知であったが、「ショックで連絡することができなかった」と告げられた。Iとは長い付き合いで、生前は故人を非常に可愛がってくれた。90歳となっても聡明さは昔のままで、すべてを記憶しており、我々3人の最後の晩餐のことも記憶鮮明である。

 昨年11月初旬、当社での取材を終え、夕食をホテルオークラ福岡でとることにした。彼はスキーの腕前がプロ級で資格ももっている。足腰は頑丈であったが、スキーのプレー中に膝を傷つけた。それ以来、関節が伸びなくなったので歩くのが非常にゆったりとしている。見た目は衰えた老人のようだが、実際のところは、老化の傾向なぞまったく見られない。

 電話口でのIは、最後の晩餐のことを振り返り、「会社からホテルオークラまで腕を組んで助けながら歩いてくれたことに感謝している。悦子さんも足元は弱かったようだが──」と声が震えていた。

 オークラのレストランではステーキを食べることになり、Iは150g、筆者は120g、悦子は100gを注文した。90歳で150gを食べるとは凄いことである。悦子は途中で食べられなくなり、50gほどIに回した。Iは200g食べたことになる。Iが電話口で話ながら感動していたのは、寿命が果てつつあった際に、故人がこれだけの付き合いをしてくれたことにあるのだ。

37kgの峠から下るばかり

 悦子の当時の体重は37kg前後だった。喉元にある食道の筋肉はか細くなり、肉という固形物を飲み込むことに負担を感じるようになったのであろう。この頃から外食に誘っても食事を残すことが目立つようになり、また同席者に食事の一部を回すことも頻繁になった。やはり体重を37kg前後にまで回復させられるかどうかが瀬戸際であったようだ。

 「肉付きのよい政治家は長寿である」という格言のような言葉が政界にはある。そのたとえ通り、Iは元気。ライフワークである福岡城天守閣建設運動に邁進しており、必ずや目標を全うするであろうと信じている。

21年夏から食欲不振顕著

 2021年の夏頃から自宅で夕食をつくる悦子の料理が、依然と比べてとても貧弱になってきた。おかずの品数が2品ほどに減ったのだ。筆者は、「そんな食事量では痩せるであろう」と叱ったこともあり、「せめて夕食の状況を自身でチェックしないといけない」と決めた。取りあえず「40kg死守」を合言葉とした。悦子はそれ以前はワインもよく飲み、つまみもよく食べていた。

 しかし、3食全てに付き合えるわけではないため、実態を把握することはできない。以前、友人の娘さんが拒食症になり体重が30kg台に落ち込んだという話を聞いたこともあったが、その際、精神医療を専門とする友人からは「35kgを割ったら生命に関わる」と教えられていた。その言葉を筆者は再度頭に叩き込み、悦子の体重の推移をチェックした。

コロナ感染で一挙に40kg台を大幅に割る

 コロナ感染以降、形勢は元に戻らず、再生の道が遠のいた。筆者は「回復させることに全力投入しつつ、悦子に友人たちとの最後の晩餐の機会をもたせよう」と決めた。「最後の晩餐」と銘打って、22年3月から毎月2回、友人たちとの会食を設定した。

 小旅行にも行ったが、せいぜい2泊の長さであった。体の動きが非常に鈍くなったのが気がかりであった。体重の推移の記録を見ても、減少傾向から反転させることは困難だった。37kgという水準がまさに壁であり峠であった。腰回りも細くなり視線をやりづらくなった。

 22年の前半には、まだ本人も回復の意欲をもっていた。コロナの治療のため入院し、退院後1カ月で「3月からリハビリに通う」と言い出してもいた。すぐ近くのリハビリ病院へ通院の手続きをした。だがその後、体を動かすことがきつくなったのか、6月前半で通院を終えた。どんなに頑張っても、体重40kgの回復は遠い道のりであった。

22年11月、本音を漏らす

 当初は「回復してみせる」という闘争心をもっていた本人も、体の弱りを痛感し、心寂しくなっていたのであろう。

 つい先日、昨年11月の当社恒例の忘年会に参加していた友人から、「悦子さんは死を覚悟していたようだ」と知らされた。その時点で自身の症状が「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」のような不治の病であると悟っていたのであろう。

 その後は連載(1)(2)で触れた「魔の23年新年のスタート」になってしまったのである。

(つづく)

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