2024年12月24日( 火 )

サンフランシスコで開催された米中・日中首脳会談の違い(前)

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国際未来科学研究所
代表 浜田 和幸

サンフランシスコ 街並み イメージ    アメリカのサンフランシスコで開催されたAPEC総会の機会に、1年ぶりとなる米中、日中首脳会談が実現しました。11月15、16日のことです。

 とはいえ、バイデン大統領と習近平国家主席の会合はサンフランシスコの南38㎞の郊外にある「ウッドサイド」と呼ばれる私有地のなかにそびえる豪華なファイロリ庭園邸宅で、昼食を入れて4時間を超えるもの。

 一方、岸田文雄首相と習主席の会談は中国側代表団が宿泊するホテルにて行われ、1時間ほどでした。中国にとってはアメリカこそが自分たちと対等の存在だと内外に示しているわけです。残念ながら、岸田首相からは中国の方針転換を要請する一方で、中国の関心を引くような「Win-Win」の提案はありませんでした。

 それとは対照的に、アメリカ側の中国への気配りや歓待ぶりは異常なほどで、「中国との関係改善がなければ、バイデン大統領の再選も危うい」と受け止めている様子が節々に見られました。何とか、習主席からバイデン政権への期待を込めた言質を取りたいと必死の様相です。たとえば、庭園の散歩中には、バイデン大統領は習主席に「奥様の誕生日をお祝い申し上げる」とささやきました。

 実は、バイデン大統領と習主席の彭麗媛夫人は誕生日が同じで、11月20日なのです。すると、習主席は「仕事が忙しく、妻の誕生日が来週であることをすっかり忘れていた。思い出させてくれて、ありがとう」と応じたといいます。バイデン大統領の側近による「習近平篭絡作戦」の一環に他なりません。

 そうした念入りの下準備の成果としては、両首脳間のホットラインの復活や軍高官同士の話し合いの再開、中国由来のフェンタニル(麻薬性鎮痛剤)の規制強化、人工知能(AI)に関する専門家対話の推進などが合意されたようです。中国側はアメリカ側にある程度の花をもたせる代わりに、中国側の要請を全面的に受け入れることを強く求めたとのこと。

 具体的には、アジア・太平洋経済協力会議(APEC)やインド太平洋経済枠組み(IPEF)の前に、習主席に最大限のスポットライトをあてるような段取りが仕組まれたというわけです。そのため、バイデン政権はサンフランシスコ市内の清掃と交通の渋滞回避に万全を期したことは間違いありません。習一行が移動する道路わきには中国国旗を掲げる多くの学生や中国支持者が目立ちました。アメリカ最大の中国人コミュニティを擁するサンフランシスコならではのことでしょう。

 というのも、かつては観光名所として世界に冠たるサンフランシスコでしたが、近年は犯罪者や浮浪者が街にあふれ、ホテルやショッピングモールも閉鎖されてしまい閑古鳥が鳴く有り様ですから。何しろ、米下院議長だったペロシ女史の私邸が暴漢に襲撃され、夫が重傷を負うような事件が起きたほど、治安の悪化が常態化しています。
 そのためか、バイデン大統領はサンフランシスコ南部の保養地にわざわざ習主席を招き、首脳会談を開いたというわけです。ちなみに、中国のテレビではファイロリ庭園邸宅でバイデン大統領が習主席を熱烈歓迎する模様を長時間に渡り、繰り返し放送していました。

 米中首脳会談後に、バイデン大統領は習主席に「ゴールデン・ステート・ウォリアーズ」のロゴ入りのジャージーをプレゼントし、そのまま習氏が乗る特別仕様の専用車「紅旗」まで案内し、「素晴らしく美しい車ですね」と褒めちぎったものです。バイデン大統領曰く「自分の乗っている大統領専用車“ビースト”とよく似ている」。すると、習氏はすかさず「中を見ますか」と対応。仲睦まじさを演出した次第です。

 実は、この会談場に到着した習氏を両手の握手で出迎えたバイデン大統領が最初に行ったのは、自分のスマホから若き日の習氏がサンフランシスコを訪問したときの写真を見せたことです。これは30代前半に河北省正定県の党書記としてアイオワ州の農村を視察した際、その帰路、ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)の前で撮った写真でした。

 そして「当時も今もあまり変わりませんね」とリップサービス。これもバイデン大統領の側近が中国メディアから探し出してきた「懐かしの1枚」に他なりません。すると、習氏は「覚えています。38年前の自分です」とクールな反応を見せました。

(つづく)

浜田 和幸(はまだ・かずゆき)
    国際未来科学研究所主宰。国際政治経済学者。東京外国語大学中国科卒。米ジョージ・ワシントン大学政治学博士。新日本製鐵、米戦略国際問題研究所、米議会調査局などを経て、現職。2010年7月、参議院議員選挙・鳥取選挙区で初当選をはたした。11年6月、自民党を離党し無所属で総務大臣政務官に就任し、震災復興に尽力。外務大臣政務官、東日本大震災復興対策本部員も務めた。近著に『イーロン・マスク 次の標的「IoBビジネス」とは何か』、『世界のトップを操る"ディープレディ"たち!』。

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