2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(7)ある出会い

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谺 丈二 著

「実は君に紹介したい人がいるんだが」

 杉本の紹介で井坂が朱雀剛三に初めて会ったのは昭和50年代半ばの夏だった。中洲の料亭『那珂川』の床の間付きの大きな部屋に、朱雀は約束の時間にしばらく遅れて、満面の笑みとともにやってきた。

「いやいや、今年はことのほか暑いですな」

 遅れたことをさほど気にするでもなく、大きな声でそういうと朱雀は冷たいおしぼりを熱いそれに取り換えるように仲居に言った後、汗だくの顔で2人の前に胡坐をかいた。

「しかし、暑さ寒さがはっきりするのが商売にとっては何よりの薬でしてな」

 朱雀は笑顔で一方的にしゃべりながら黒ぶちのメガネをはずし、見るからに既製品といった紺の背広を脱ぐと、臙脂のネクタイを緩め、カッターシャツのボタンを外し、螺鈿の座卓の上に運ばれた熱いおしぼりを手にして顔と首の回りを拭いた。

 汗を拭き終えたところで服装を直し、膝を整え、そのうえに両手をそろえた。つい数分前とは打って変わった神妙な態度だった。

「朱雀社長、うちの井坂です。極めて優秀でしてね、当行のエースの1人です」
「それは、それは。今後ともお世話になります。どうぞよろしくご指導のほどを」

 朱雀は改めて深々と頭頂部が薄くなった頭を下げた。

「審査部の井坂です。こちらこそよろしくお願いします」

 先に挨拶しようとした井坂を制して、自分から芝居がかった大げさな挨拶をする朱雀に半ば気押しされながら、井坂はごく普通に礼を返した。

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 朱雀は戦後間もなく勤めていた税務署を退職し、母親が開いていた小間物屋の経営に加わり、それを瞬く間に大きな企業グループに育て上げた立志伝中の人物だった。大型スーパーの他に家電や衣料品、レストランなどのチェーンを経営している。西日本総合銀行の大口融資先だが、朱雀が銀行に顔を出すことはめったになかった。それにはある理由があった。

 メインバンクではあったが、西日本総合銀行は朱雀屋にとって必ずしも物わかりが良いパートナーというわけでもなかった。

 急拡大を始めた昭和40年代には、その財務内容と経営手法に問題があるということで、一時融資をストップして朱雀を慌てさせたこともある。

 しかし、業績が上向くと朱雀の人の良さに付け込んで、その経営手腕をおだてあげ、いくつもの不良債権化した融資先の企業を紹介し、合併のかたちで朱雀屋にそれを押し付けていた。

 そんな付き合いのなかで、臍を噛むことも少なくなかった朱雀にとって、銀行はどちらかというと自ら足を向けたいところではなかった。

「銀行さんというのは雨のとき、肝心の傘を取り上げるということを平気でしますからなあ」

 朱雀はたまの銀行関係者との会食時、笑顔に皮肉を込めてそう言った。剛毅な朱雀は遠まわしと慇懃無礼を絵にかいたような銀行が性格的に嫌だった。

 顔合わせの挨拶を終えると杉本と談笑する朱雀を井坂はじっと観察した。その笑顔は一見、人の良さそうな商売人の顔だが、黒ぶちの眼鏡の奥に鋭い眼が光っている。

 とくに太っているというわけではないが、汗かきの体質らしく、拭うそばから噴き出す汗にせっせと扇子の風を送りながら、仕事の話を熱心にする。話が一段落すると相好を崩して相手を褒めるのが朱雀の癖のようだった。

 色白でどちらかというと小柄の朱雀だが、何かしら気安く声をかけがたい雰囲気をもっている。

 そのときの朱雀は、自分が興味のあること以外の話題を受けつけようとしなかった。エネルギッシュに持論を主張する一方、相手の話題が自分の価値の外に行くと無遠慮にそれを遮り、自分の価値エリアに戻そうとした。逆に自分の興味のあることに関してはメモを取りながら熱心に話を聞いた。

 会話のなかで、朱雀は事業の危機に際して、銀行に助けられたという話を何度も繰り返した。そしてその都度、明るく笑った。しかし、その笑顔に井坂は感謝というより皮肉を感じた。

 ウナギとアユ料理という贅沢な昼食を挟んでの歓談が終わると、朱雀は丹波小豆を使った京ぜんざいのデザートに手を付けることもなく、忙しさにかまけて運動不足を嘆く言葉を残すと足早に駅に向かった。

「カリスマか・・・」

 朱雀の後ろ姿を見送りながら井坂は頭のなかで呟いた。

 再度座敷に戻り、井坂はうまそうにデザートを平らげる杉本を見ながら、朱雀を紹介した杉本の本音を推測した。

 銀行員にもいろいろな生き方がある。コツコツと日常をまじめに勤め、階段を上ろうとする者、将来伸びそうな企業を探し出し、融資を与え、その発展とともに銀行内での地位を確保しようとする者、有能な上司にべったりとくっついてその昇進に連れられて出世を目論む者などそれこそ多種多様である。

 杉本は男気があり、成長しそうな企業に肩入れしてその成長を自分の喜びにするようなタイプだった。そんな気性のせいか部下とは親分子分の関係で付き合うというやり方を好んだ。自分の気に入った企業に部下を紹介し、将来の天下りも含めていろいろな意味でその便宜を図る。それは自分の腹を痛めることなく部下の面倒をみるという利口なやり方でもあった。

 朱雀屋の場合も上場に際して杉本ら幹部の何人かが事前に未公開株を譲ってもらい、小さくない個人利益を手にしている。杉本にとっては、上場をはたし、魅力のなくなった朱雀屋だった。子会社の上場という可能性もあるにはあるが、近い将来に確実にということではない。井坂に朱雀屋との付き合いを引き継いでも杉本が失うものはないに等しい。むしろ新しい成長株を探したほうがメリットは大きい。

(つづく)

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