経済小説『落日』(8)生い立ち
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谺 丈二 著
生い立ち
食べるに事欠くというほどではなかったが、豊かさとはほど遠い農家の三男に生まれた井坂だった。兄2人はそれぞれ優秀で上の学校に行く準備と称して、家の手伝いをすることはほとんどなかった。おかげで井坂は兄たちの分まで農作業を手伝わなければならなかった。
とくにつらかったのは水を汲む仕事だった。雨の少ない年などは水桶を担いで、ため池と田んぼを気の遠くなるほどの回数を往復した。弱さほど惨めなものはないという幼いころに芽生えた井坂の思いは、時間とともに大きくなり、その背中を押し続けた。そんな井坂にとって杉本は格好の道具だった。
幼いころから過酷な肉体労働を続けたせいか小柄の割には横広のがっちりとした体型をしていた。その体に短い手足、ぎょろりとした大きい眼、低い鼻に乱杭歯というお世辞にも明るいとはいえない顔が付いている。しゃべり方も訥々としていて、どちらかというとイメージは暗い。そんな井坂への行内の評価は高低二分していた。
銀行に限ったことではないが、ビジネスの世界では実務の力がそのまま評価になることは少ない。上に行けばいくほど、評価は好き嫌いと派閥で変わる。
仕事はできるが見てくれの印象が今ひとつで、汗の世界で泥臭く実績を上げてきた井坂のようなタイプは、よほど有力な上司に付かない限り、その努力が実を結ぶことは少ない。せいぜい支店長か、うまくいって平部長止まりということになる。
持って生まれた容貌と育った環境に対する漠然とした不満のなかで、井坂のなかではいささか棘のある上昇志向が育っていた。そんな井坂が選んだのが杉本だった。杉本は井坂とは対照的なタイプだった。いわゆる、明るく元気で人あたりが良く、上下、関係なく大方の行員の評判が良かった。いわゆる出世するタイプである。一緒に仕事をすることで自分への注目度も上がるかもしれないという期待が井坂にはあった。
審査部に移ってからというもの、井坂は公私、時間に関係なく杉本に尽くした。不本意に耐える訓練は幼いころからできていた。杉本の息子が東京の大学に進学するときには、かつての部下を通じて下宿や家財の調達すべてを整える役回りまで引き受けた。
「これも将来のためだ」
幾度となく訪れたプライドが折れそうになる場面で、井坂はいつもそう自分に言い聞かせた。その努力は実を結び、3年後に井坂は杉本の常務昇進の後を受けて審査部のトップに座った。
(つづく)
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