2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(9)近づいてきた男1

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谺 丈二 著

 本店審査部。内外に結構な力をもつその部署には、支店や取引先を通じてさまざまな種類の情報が集まる。取引先から株や土地の利権の誘いも少なくない。

 井坂はさまざまな情報を手に入れ、それを蓄積した。融資先との公私を含めた付き合いのなかで、金銭だけでなく、業務外の個人情報もその手元に集まり、それはそのまま有形、無形の財産になった。

「部長、ご相談があるのですが」

 審査部長になって程なく、融資先の小さなクラブで声を掛けてきたのは営業企画の犬飼孝弘だった。

「相談?」

 グラスを手にしたまま、カウンターに座っていた井坂に歩み寄り、ごく自然にその隣に腰を下ろし、所属と名前を名乗った後、犬飼は小声で言った。

「私たち企画の有志にレクチャーをいただきたいのですが」

 井坂は改めて中肉中背の犬飼を見た。犬飼の顔も名前も知ってはいたが、それまで個人的に親しく口を利く機会は、ほとんどなかった。

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 犬飼が所属する営業企画は行内エリートの集まりだった。彼らは短期の支店現場経験を経て、本店各部署を回り、その後は本部の机上で営業方針を立案することをもっぱらの仕事としている。

 言うまでもないことだが、大蔵省の規制のなかでの銀行業務はほとんど同類、同列である。彼らのつくる月並みな企画が当たるかどうかは、広告宣伝と末端行員の働きにかかっている。それだけに支店との人間関係が密なほど彼らの企画は大きい実を結ぶ。支店人脈が薄い彼らが自分たちの企画をよりたしかなものにするためには、支店に発言力がある幹部を取り込むのが手っ取り早いやり方だった。

 営業企画でうまく事を運べば、あとはボードに直結する銀行全体の経営戦略に携わる経営企画の仕事が待っている。地方の有名大学出身の犬飼は同じ世代の何人かとともに、仕事のできる中堅として西総銀幹部の間で、時々名前の挙がる男だった。いわゆる第一選抜組の1人だ。

「現場の神様といわれる部長からご指導いただければ、私たちにとっては望外の喜びです」

 犬飼は歯の浮くような世辞も加えて、真顔で井坂の顔を覗き込んだ。井坂にとってもこの申し出は悪くなかった。うまくすればエリートの何人かを自分の懐に取り込むことができる。出世のためには優秀な上司に付くだけでなく、優秀な部下をもつことも大切だ。

「何人だ?」

 そんなことを考えながらしばらく時間をおいて、井坂は言った。

「はい、3人です」

 3人と聞いて井坂はいささか気を良くした。仲間内で話題に上る営業企画の有望な若手は4人だった。しかし、それを二つ返事で引き受けるほど井坂は単純ではなかった。

「冗談言っちゃいかんね。営業企画部長を差し置いてそんなことはできんよ」

 軽く笑いながら井坂は言った。妻の父親が西総銀の元副頭取だったという営業企画部長の石田高志は、井坂より3年先輩の神経質で気が小さい男だった。どちらかというと井坂の苦手なタイプである。当然、親しく話すこともなかった。本音で言えばそんな男に遠慮する必要はない。しかし、後輩という立場上、一応遠慮した物言いをするほうが無難である。

 石田は営業の企画より銀行の決算業務を取り仕切るのをもっぱらの仕事としていた。いわば典型的な事務屋である。どちらかというと部下にとっては退屈な部類に入る男に違いなかった。とくに犬飼のように能力と野望をもち、将来の栄進を夢見る者にとって利用価値はないに等しい。

「わかっています。うちの部長の機嫌を損なわないように井坂部長だけではなく、仲間内の勉強会ということで部外の人間も何人か加えて、各セクションの複数の先輩にお願いしています。ですが、本命はあくまで井坂部長ですから」

 犬飼は臆面もなくささやくようにそう言うと目を細めた。

 40手前の犬飼は丸顔、童顔で一見、人のよさそうな顔をしていた。有能と評判の上司にはそれとなく近づき、さりげなく自分を売り込んだ。小柄で人なつっこい笑顔がしたたかな計算を隠すのに役立っている。

 逆に自分にとって価値のない上司には無害男を装った。相手かまわず自分を売り込むのが得策でないことを、犬飼はよくわきまえていた。犬飼にとって大事なのは付いていく上司を何人か選び、その将来を計算しながらできるだけ絞り込むことだった。

 有能な上司とうまく付き合うといっても、ただ窓口が広いだけでは実利を得るのは難しい。八方美人ではいざという時信用してもらえない。それで失敗した先輩の何人かを犬飼は見てきた。

(つづく)

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