経済小説『落日』(10)近づいてきた男2
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谺 丈二 著
どちらかというと個性派の少ない西日本総合銀幹部のなかで井坂と杉本はいささか異質だった。明るく豪快な杉本と緻密で仕事熱心な井坂。人脈として利用するには悪くないコンビだった。
やり手という井坂の評価は銀行内でたしかな位置を占め始めている。うまくいけば井坂は杉本に支えられて、専務ぐらいいくかもしれない。犬飼はしたたかに計算した。2人についてある程度のし上がり、あとは自分の力で何とかすればいい。
海釣りが趣味だった犬飼は、井坂の50回目の誕生日に粋な演出をした。8月のその日、近所の魚屋が犬飼の依頼ということで3㎏ほどの大きな石鯛の活きつくりを届けてきた。
『狙ってしとめるまでまる2日を掛けました。激闘でした』
添えられたメッセージカードにはそう記してあった。魚屋が出ていくとそれと入れ替わるように犬飼は入手困難といわれる銘酒を手に、気心の知れた5、6人の仲間を引き連れて井坂のもとを訪れた。
井坂は感激した。その日から井坂と犬飼は文字通り一心同体になる。
それからというもの、犬飼は企画部のスタッフを使い、各支店のあらゆる情報を集め、それを井坂に届けた。井坂が考えたのは支店長の小さなミスをつかみ、それを利用するというものだった。
銀行は建前と無難の組織でもある。加えて、放っておけば人は悪事を働くというのが前提だから、そこには息が詰まるような管理と報告の網が張ってある。そんな銀行でのミスは一般の会社とは少々ニュアンスが違う。
信用という錦の御旗が翻る銀行に敗者の復活はない。小さなミスでも時として命取りになる。そのため、銀行員はスキャンダルに敏感になる。しかし仕事柄、誘惑は少なくない。油断すると至るところで落とし穴が待っている。そして時々この穴に落ちる。
支店長や支店幹部の小さなスキャンダルを拾うと犬飼は自分の取り巻きを使って、間接的にそれを本人に伝えた。本人に伝えるといっても直接伝えるというのではなく、当人の一番親しい人間に話すのである。
話はその日のうちに当人に伝わる。あとは状況を見て、そのスキャンダルが表ざたになる前にもみ消したというかたちをとればよかった。単純で姑息な手段だったが事実無根の噂にも神経をとがらせなければならない銀行員には効果的だった。
もう1つは審査の責任者井坂の地位を利用して支店長に恩を売るというやり方だった。
支店の調査とは別に犬飼は取引先の経営内容をあらゆる手段で細かく調べた。そして明らかにリスクが大きい場合だけ融資を中止させた。
経営が厳しい企業が融資を断たれれば結果は決まっている。そんなとき、融資をしなかったことを気にして自責を口にする支店長には、不良債権の発生を未然に防いだと上手に持ち上げて恩を売り、安全な融資にはそれを積極的に支持してまた恩を売った。そして、始末と結果がうまくいったときに限って犬飼は井坂の名前をちらつかせた。
大抵の人間は大義より個人の利益で動く。犬飼の手法は成功した。
「井坂さんはおれたちをじっと見守ってくれている」
各支店での井坂の人望は日に日に厚くなっていった。
(つづく)
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