経済小説『落日』(33)救世主2
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谺 丈二 著
その後、営業本部の通路横の一角に衝立で仕切られた小さなコーナーを与えられた坂倉は、そのパーティションの外側に奇妙なポスターを張った。
〈募集〉
仕事のわからない人
勉強したくない人
自分に自信のない人
何か新しいことをやってみたい人を求めます。気軽に声をかけてください
「先生、反応がありましたか?」
坂倉のデスクに両手をつきながら武本が笑いかけた。
「まさか。いくらなんでも本部の人間であのポスターに反応するほど感度のいい人間はいませんよ。当社のレベルがよほど高ければ別ですがね」
坂倉は意味の良くわからない言葉を口にした後、上体を大きく後ろにそらしながら品のない声で笑った。
坂倉の意図はスタッフの募集ではなかった。その証拠に、武本が選んだ若手の5人ほどがスタッフとして坂倉の下ですでに仕事を始めていた。坂倉にとってそれ以上の頭数は要らない。ポスターを張ったのは、コーナーの横を通る本部の人間にこの新しい部署を注目してもらうのが目的だった。
どんな場合でも、ことをうまく運ぶにはまず周囲の注目、いわゆる存在感が必要である。成功、失敗に関わらず、注目度が高いほどその反応も大きい。
「当社のことは裏も表もすべて知っていただきたい。そのうえで犬飼と相談して改革を実行してください」
宿舎として用意されたシティーホテルの最上階の窓際に立ち、ガラス越しに広がる街並みと空の青に目をやりながら、坂倉は頭のなかで井坂との会話を反芻していた。
「この企業の機密防衛レベルはまるで零細企業並みだ。権謀術数は渦巻くがセキュリティーの感覚はまるでない。うまくやれば稼ぎは大きい」
坂倉は、寒さに震えながら関東の小売大手I社の冷蔵庫のなかで牛乳や豆腐と格闘していたときのことを思い出した。I社は流通業界を代表するスマートな表の顔と違って、実際の顔は文字通り実に泥臭い企業だった。そこでの仕事はコンサルタントとは名ばかりの、担当者と商品の売れ数などの連続作業に明け暮れた。同社は企業数値に関することに関してはことのほか管理が厳重だった。もちろん、担当する業務数字以外のデータを坂倉が手に入れるのは不可能だった。
彼は担当者と共同で簡単な業務改善の結果を報告したところで、すぐに契約を解除された。それに比べると朱雀屋は別天地だった。
役員報酬をはるかに上回るコンサルタント料を支給され、会社のすべての情報にアクセスすることを許されただけでなく、新規事業の計画、実行まで任されることになりそうだった。
仕入れという商品調達で、どこをどういじれば取引先からより優位な条件を引き出せるかは、I社時代のバイヤーのやり方をつぶさに見聞きしていた。
生え抜き営業幹部は意気消沈、支配人は畑違いの人間。そのなかでの大きな権限。私的財産の形成は思いのほか簡単なような気がして坂倉はほくそ笑んだ。その熱い思いはそう遠からず実現する。
実務が始まると坂倉は、商品部の最高責任者だった沖松の取引先廻りに状況視察という名目で同行した。社内で評論家と揶揄される沖松は総花的な業界動向には詳しかったが、実務に対しては驚くほど淡白だった。
やがて坂倉はバイヤーを通さない商談を次々にまとめ始めた。あわてたのは当のバイヤーたちだった。彼らの頭越しに、しかも根拠のない数量の商品が送り込まれた。新規の取引先も増えた。過剰在庫の発生に、店舗から厳しい声が届き始めたからだ。
「会社の商品政策だ。君たちは黙って店舗を説得すればいい」
その時現場を押さえつけにかかったのは犬飼だった。
「あえて厳しい数値をやり遂げなければ当社の風土も業績も変わらんよ」
行き過ぎと側近までもが首をひねった坂倉のやり方を、なぜか犬飼は強引に追認した。
(つづく)
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