経済小説『落日』(34)屈辱1
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谺 丈二 著
「社長まずいことが起きました」
風邪で体調がすぐれない井坂のもとに、財務・経理部長の太田が暗い顔でやってきたのは年明け早々のことだった。風邪の原因は年末の中国旅行だった。
社長就任以来、井坂は静かなところで来期の構想を練るという名目で中国各地を旅するのが恒例になっていた。
これからの世界は中国を中心に動く。そのためには中国と東南アジアをしっかり見ておく必要がある、というのが井坂の主張だった。もちろん、市場視察というのは表向きで実際は観光旅行に過ぎない。
ところが今回に限って、その旅行から帰った途端、ひどい風邪の症状が出た。兵馬俑見物に立ち寄った西安の近来にない異常な寒さのせいかもしれなかった。
「今日は気分がすぐれん。簡単にしてくれ」
「実は」井坂の目を覗き込むようにして太田が口ごもるように言った。
「崑崙百貨店が倒産しました」
「崑崙が倒産? どういうことだ。地元の優良百貨店じゃなかったのか」
「ええ、うちの現地事務所の調査では問題ないということだったのですが」消え入るような声で太田が答えた。
「君たちなあ、仕事は遊びじゃないんだよ。今回の合弁は社の内外に華々しく打ち上げているんだ」
崑崙百貨店というのは台北にある地場の百貨店だった。百貨店とはいってもテナントを寄せ集めてその体をなしているいわば二流のデベロッパーだった。
総合小売の朱雀屋はすでに複数の海外拠点をもっていたが、それは商品調達のための拠点であり、直接の営業店舗はなかった。
既存業態の改善が進まないなか、井坂は攻めに出るというかたちでそれを補おうとした。おりしもアジアの時代という言葉がマスコミや業界を歩き始めていた。九州こそアジアへの窓口というのが各マスコミの論調でもあった。朱雀屋は九州が基盤。井坂はこれを新生朱雀屋アピールのチャンスととらえた。実際に小売業で海外に進出しようとしたのである。その第一号が崑崙との合弁による専門店の出店だった。
如何にアジアの時代といっても、いきなり大型スーパーを出店するほどのノウハウも体力もない朱雀屋だった。しかし、単に小型の服飾専門店の出店では大きな話題にはならない。そこで井坂が考えたのが現地百貨店と提携するという手段だった。台湾を足がかりに、やがて中国本土にも進出する。マスコミリリースも行って、井坂の思惑通りそれは一応、業界の耳目を集めた。
「アジア戦略は我が社の新しい方向を示す目玉だろう。どうなっているんだ」
井坂は怒りと風邪が重なったかすれ声で太田を叱りつけた。
「すみません事前情報は十分とったつもりだったんですが」
「十分とった? バカなことをいうな。ならどうしてこんなことになるんだ」井坂から投げつけられた怒声に太田は口をすぼめ、いたずらを叱られた子どものような顔をした。
井坂は不機嫌を眉間の縦皺に替えて立ちあがると窓の外を見た。「損害額ですが」
「そんなことはもういい」太田の言葉を不機嫌に遮ると大きく息をつき、吐き捨てるように言った。
「箝口令だ。このことは誰にも話すな。かかわっている人間には君からしっかり言い聞かせろ。店はそのままにして、折を見てどこかに売却しろ」
その日から一週間、井坂は不快と風邪で自宅にこもった。
「どうも資金繰りに利用されたみたいです。崑崙の事務所は債権者が占拠していてうちの債権の回収は絶望的です。倒産そのものは計画的ではなく、以前から地元では時間の問題といわれていたみたいです。ただ、華僑の場合は、必ずしも世間の風評と実態が一致しないことも少なくないですからね。私がつかんでいた崑崙の情報もそう深刻なものではなかったのですが・・・」
半月ほど経って井坂に経過を説明にきた朱雀屋現地駐在員の宅野勝の報告はあきれた内容だった。合弁の直接の責任者でなかったこともあり、宅野は淡々とまるで他人事のように話した。
(つづく)
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