経済小説『落日』(35)屈辱2
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谺 丈二 著
クローズのプレートがかかったドアにクラブ・ロバータと外国語で書かれた小さな店には犬飼とその仲間が集まっていた。
「そうですか。やっぱり。海外出店は慎重を期さないと。隣国と言っても嗜好性も生活習慣も違いますしね。まして衣料品の場合は体型の違いも大きいですよ。同じ東洋人でも体型は国によって微妙に違いますから。国内標準の日本型ではマッチングに問題が出ますね。しかも今や台湾は世界の繊維産業のトップを走っています。価格やセンスもバカにできません。台湾でうまくやるには戦術だけじゃなく、戦略も絡めて運ばないとね」
坂倉がしたり顔で水割りを手に笑いながら誰にいうともなく大きな声で言った。
「遠隔地経営はエリアを抑えるのが戦略です。エリアをまとめて制圧しないとそれこそ孤軍奮闘、援護なしになりますからねえ。旧日本軍のように島嶼や都市などの点だけを抑えてもそれは勝利にはつながりません。遠く離れた本部から飛び地をうまくコントロールするのは容易ではありませんからね。」
坂倉は太平洋戦争時の日米の戦略の違いを引き合いに出して、台湾の失敗を皮肉たっぷりに批判した。
「雅ちゃん、氷いいかな」
坂倉の言葉に笑顔でうなずきながら、赤い顔をした武本がテーブルのアイスペールを指さしながら言った。
雅ちゃんと呼ばれたのは植田雅子。朱雀屋の総務部に籍を置く女だった。ロバータは雅子の母親が1人でやっているクラブとは名ばかりの小さなスナックだった。以前は一般客のほかに、雅子の職場仲間の何人かが顔を出すごく普通の店だったが、雅子が犬飼と親しくなってからというもの、犬飼の紹介で取引先の利用が増え、結構流行るようになり、今では数人のアルバイトの女の子を雇うまでになっている。
犬飼は交際費としてかなりの金をロバータに落とし、時には請求を水増しさせて差額をバックさせて自らの懐に入れてもいた。
「いや、もう少し早く先生とご縁ができていたら」
坂倉の水割りをつくりながら武本が神妙な顔で言った。
「そうね、今は乱世だ。普通に作戦を考えていたら間違いなく後れを取るよ。迅速かつ完璧なマーケティングが必要だね」
武本の誘い水に坂倉がさらに大きな声で大げさに反応した。
短期間で井坂に自分を売り込むために坂倉はあらゆる面で武本と示し合わせていた。台湾の失敗を話題にするのも彼らの作戦だった。
「しかし、何事も勉強ですよ。先のことを考えたら、安い授業料ですよ。常務」
嫌な顔をする太田を横目に、坂倉は説教がましくそういうと武本から手渡された水割りを笑顔で口にした。嫌味たっぷりの坂倉の態度にウーロン茶のグラスを手にした太田は不快を募らせた。
「気にしなくてもいいよ。商売は時の運だよ。太田常務ならまたがある。しばらく時間をおいて再チャレンジすればいいよ」
そんな太田に声をかけてきたのは人事、総務の何人かとともに以前からこの店の常連だった朱雀ベーカリー社長の富田和夫だった。
水割り片手に富田は坂倉に向き直って、大きな声で言った。
「先生、まあ理屈だけなら何とでもいえるからね。大口叩くのは実績を上げてからにしてもらいたいな。太田常務は当社の屋台骨を支える仕事をしてきた実績があるからねえ。それを考えれば、毛ほどしくじりでどうこういわれることはないんじゃないの」
古くから懇意にしている富田の助け舟に太田の気持ちが少しだけ緩んだ。
就任以来、井坂は頻繁に役員や若手幹部を誘って酒の席を設けた。朱雀の時代も酒席を介しての幹部の親睦が少なくなかったがその中身はいささか違っていた。
朱雀主催の酒の席で話題に上るのは常に営業の人間だった。酒の席だけでなく、ふだんの言動も同じで、朱雀の考え方は営業現場だけが経営に実りをもたらすという原則で貫かれていた。開発や財務、総務など営業以外の部署の人間はどんなに優秀な人材でも朱雀にとって黒子に過ぎなかった。当然、経理、財務畑の太田がそこに招かれることはなかった。
ところが井坂の場合はそうではなかった。営業と財務は経営の両輪と考える井坂は営業や財務だけでなく、いろいろな部署の上下各職位の人間を酒席に誘った。
井坂が頻繁に酒席を設けるのには理由があった。それは幹部の忠誠心と能力の確認だった。
酒が入ると大方の人間は気持ちの紐を解く。井坂は酒の席を通して、幹部の本音と自分への忠誠度を確認した。井坂は朱雀と違って口数が少なく下戸だった。その分、水割りを前に幹部の言動をじっくり観察できた。
太田はもともと酒やたばこを嗜まなかった。だから、当然のことながら酒席が好きではなかった。しかし、井坂はそんな太田を繰り返し酒席に誘った。
井坂は銀行出身だけに経営に占める財務の力を知っていた。小売業は毎日結構な日銭が入る業種である。朱雀屋もグループ全体で7~8億近い金が毎日入ってくる。これをうまく運用するのとそうでないのとでは企業の利益に大きな差が出る。過去、有価証券への投資などで、太田はその金を結構うまく運用していた
井坂は酒の席で繰り返しその仕事の重要性を周りの人間に説明した。もちろんそれは、金融界出身の自分の存在の重さを幹部社員に認識させるためでもあった。
(つづく)
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