経済小説『落日』(37)あらたな蹉跌1
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谺 丈二 著
「社長、ご安心ください。私が台湾の分は取り返します」
朱雀ベーカリー専務の富田和夫が社長室を訪ねたのは台湾の不快な出来事が報告されて三カ月が過ぎたころだった。
富田は井坂が銀行から来るとすかさず井坂に取り入った幹部の1人で太田と仲が良く、井坂の出向がただの出向でないことをそれとなく知らされていた。数年の現場経験を経て本部の人事に長く籍を置く富田は、それこそ酒を飲むのが生きがいというような男だった。井坂が顔を出す酒の席は欠かしたことがない。痩身で背が高く、大きな目に黒縁の眼鏡をかけてカマキリのような細い顎をしている。
井坂が朱雀屋に入ると副社長室に入りびたりで徹底した朱雀批判を行った。おかげで井坂から大いに気に入られていた。そんな富田は井坂が社長になる直前に自分から子会社のベーカリーをやりたいと井坂に申し出た。
富田は井坂が組織コントロールの要である人事部長を遠からず銀行から呼ぶことを予測していた。下手に現職にしがみ付くより、井坂の意向に沿って行動するのがベストなのは考えるまでもないことだった。加えて、長すぎる人事畑に多少飽きてもいた。組合との交渉、昇進、昇格の査定、営業幹部からの人事干渉。人事の仕事も決して楽ではない。富田の思惑は井坂にとって好都合だった。申し出から程なくして、富田は希望通りベーカリーに専務として転籍した。
富田は太田の失敗を自分にとってのチャンスに変えたいとも考えていた。
「ベーカリーは今までのやり方を根底から覆す経営をします。あっという間に300億、500億ですよ」
新生ベーカリーと表紙に記した経営計画書を井坂に見せながら富田は頬を緩めた。
「そんなに簡単に行くの?」
「食べ物商売というのは難しく考えても仕方ありません。問題はいかに短期大量出店と経費をいかに省くかです」
「経費を省く?」
「ええ、もともと利益率は高いのですから、そこさえうまくやれば後は簡単です。ベーカリーはとくに人件費がポイントです」朱雀屋のスーパー参入と同時に創業したベーカリーはベテラン正社員が少なくなかった。もともと生産性の良くないインストアベーカリーは正社員比率が高いほど労働分配率が大きくなる。
「ベーカリーの経費の6割以上が人件費です。人件費をうまく見直せば運営経費は半分になりますよ」
富田の考え方は工場でつくった冷凍パン生地を窯に入れるだけのベーカリーにベテランも新人も関係ないというものだった。大量の新人とパートタイマーを採用し、十坪程度の路面店舗を大量に出店する。合わせて新店舗に本部や工場のベテラン技術者と管理職を店長として送り出す。
ベテラン社員をたいした手当ても付けずに通勤できない遠隔地に赴任させるのである。いわば新生に名を借りた体のいいリストラだった。
富田には人事部長になりたての10数年前にも人件費飛ばしのために、外商という有名無実に近い組織をつくり、数百人の中堅幹部をそこに出向させ、そのほとんどを退職に追い込んだという前科があった。
「ベーカリーは元気のいい若い店長、いやパートさんが店長でもいいんです。ローコストで積極的に出店します。パンも店の数に比例してどんどん売れます。何せ粗利益は7割ですからね。儲からないはずがないんです。今までは本体のなかへの出店に依存していましたからね。新生ベーカリーは違いますよ。これから独自で積極的にロードサイドに出店します」
富田は自信たっぷりに紺の背広の胸を張った。
「そうか。では挑戦してみなさい。ただしグリップとコントロールはしっかりということでな」
富田の饒舌は井坂のなかでくすぶる計画への不安を少しだけ解消した。
「売上はどんどん上がり、経費は大きく下がります。本体の営業に目にもの見せてやりますよ」
そんな富田に井坂は好相を崩した。
「とりあえず、関連会社役員会で君の構想を披露したらどうかな?」
朱雀屋グループでは毎月、10数社の関連会社の役員を集めて関連役員会を開いていた。井坂はその会議の席で新生ベーカリーの構想を発表するように富田に促した。それを披露することで参加者の士気を高めようという意図だった。
関連会社の役員には新経営陣の覚えめでたい富田のような人間からか、左遷同様で飛ばされた本体の元役員までいろいろなメンバーがいた。その前で、富田は滔々と持論を展開した。
(つづく)
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