経済小説『落日』(38)あらたな蹉跌2
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谺 丈二 著
「富田さん、パンの基本は技術に裏打ちされた品質じゃないんですか。それに店の外観パースですけど、チーピー過ぎますね。コストが低いのはいいけどパンはある部分でファッションですよ。もう少しおしゃれにしないとメインターゲットの若い子や主婦は来ないんじゃないですか?ローコストも売り上げで回収してのローコストですからね」
石井一博が富田和夫に笑いながら話しかけてきたのは、関連会社の役員が集まる代表会議の休憩時間だった。石井はもともと朱雀屋のアパレル部門出身だが、消費頻度の高い食の部門の重要性に気づき、店長に転じてからインストアベーカリーを含む食の部門に積極的に関わった。その後、複数の店舗の店長を経て今は子会社のスーパーマーケットに転籍している。童顔で一見優しそうな顔つきだが部下に厳しく、上司にも歯に衣を着せない発言をする。どちらかというと独善的で強引な性格にも見えるが、食に関しては一家言をもっているというのが社内評だった。
「工場で焼いたパンと冷凍生地をロードサイドの小型店舗で焼くというやり方では日商5、6万がいいところでしょう。」
「石井ちゃん、大丈夫だよ。メーカーのパンだってあれだけ売れているんだ。焼き立てパンならより本物だからね。食パンの宅配も考えているんだ」
「焼き立て食パンの宅配?」富田の荒っぽい話に、半ばあきれながら石井は目を丸くした。
「そうだよ、焼き立てを毎朝届けるんだ。新聞のようにね」
「確かに悪い話じゃないけど、簡単じゃないですよ。一定時間に一定の量をこなすなんてことはね。しかも毎朝焼きたてのパンをという家庭がどのくらいあるかなあ?だって普通の家庭の食パンの一日当たりの平均支出金額は20円くらいのもんですからねえ。毎日パンをという家庭に絞っても100円程度がせいぜいでしょう。それに粗利の70%をかけても宅配のコストなんてとてもカバーできないでしょう」
勢い込んだ富田の話の腰を折るように石井はさらに続けた。
「それに低経費率は売り上げしだいでしょう?
日商10万程度じゃ、ローコストは無理ですよ」
「いや、今のところは構想だよ、構想。問題点と具体策はじっくり考えるさ」富田があわてて言葉を濁したところで会議再開の時間になった。
富田の計画通り一挙に多店舗化したベーカリーだったが、結果は石井の心配どおりになった。焼き立てパンにこだわる客は品質にうるさい。毎日同じものを高品質でということと目先を変えて新しい商品を定期的に提供するということが必要になる。
さらに朝、昼、夕と一定時間に客が集中する。もし、焼き上がりが数10分遅れればそれは大きなロスになる。しかも、冷凍生地による焼き立てパンは普通、1日たてばホールセールと呼ばれる大メーカーのパンより味が劣るという現実がある。
新生ベーカリーはそのミスを犯した。しかも悪いことに。ピーク時間がずれて焼きあがったパンをそのまま売場に出し、同じ商品を次のピークに焼き立て表示で売ったのである。その結果、焼き立てといいながら相当時間がたったものが店頭に並んだ。そんな店舗を立地条件無視で爆発的に出店したからたまらない。売上こそ年商100億近くに増えたものの、たった1年で10億近い赤字を出した。加えて富田は退職したベテランの代わりに大量の大卒新人を採用していた。多くの若い力が将来を失った。
富田の失態はそれだけではなかった。井坂の怒りを恐れて決算の直前まで赤字を隠していたのである。まさに決算の直前にそれを知った井坂は青くなった。しかし、井坂には打つ手がなかった。
富田の責任には違いなかったが、富田の無謀を心配する幹部社員の意見を一蹴したのは井坂自身であった。今さら後悔しても間に合わない。
もともと、経営にはさしたる興味もない富田だった。そんな富田のベーカリーは顧客不在で暴走した。悲惨な決算後、富田は自宅に引きこもった。しかし、そんな富田を井坂は赦した。その後、富田が与えられたのは朱雀屋グループの健康保険組合の理事だった。その後、富田は定時出勤、定時退社、週休2日の優雅な日々を過ごすことになる。
(つづく)
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