2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(39)負の連鎖1

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谺 丈二 著

「調査の結果M県がベストです。M県に集中出店します」

 坂倉が分厚い資料とそこから抜粋した提案書を朱雀屋グループの戦略会議に提案したのはベーカリーが頓挫した直後のことだった。

「店長にはベテラン主婦を登用します。もちろん、パートタイマーの店長です。本部要員はスーパーインテンデントとして複数の店舗を管理、指導します」

 さらに坂倉はローコスト経営を実現するため、生鮮部門をすべてテナントで構成し、品ぞろえを普通のスーパーの10分の1にすると続けた。坂倉の提案した新型のスーパーマーケットとはまさに過去の否定というより基本の否定だった。

 説明を受けた営業役員の全員が唖然とした。しかし、彼らの誰もが坂倉の提案に反対しなかった。その提案が事前に井坂の合意を得ていることは明らかだったからだ。さらにもう1つ彼らがあえて否定しなかったのはその計画が失敗することが確実だったからである。

 普通、失敗の可能性が高ければ徹底した議論でその是非を問うのが本来の役員会の姿だが、朱雀屋の役員会はすでにその機能を失って久しかった。それは朱雀が周りを子飼いの役員で固めた時から始まっていたのかもしれない。登用された直後から彼らは息子の一茂を除けば全員朱雀の追認者だった。

 朱雀屋にきてからというもの井坂は冷やかにそんな役員会を見ていた。しかし、皮肉にも井坂が朱雀に取って代わった後も、その機能に変化はなかった。役員から見れば井坂も朱雀と似たようなものだったのである。

 井坂は自分が価値を認めたものに対しての批判を許さなかった。だから、井坂が登用した坂倉の計画を否定、修正するのは不可能だった。いったん、井坂から信用された坂倉を排除するには坂倉の致命的な失敗を待つしかない。

「こりゃだめだ。机の上じゃなるほどだけど、実際にはこの通りには動きませんね。これじゃベーカリーと同じだ」

 すばらしい発想ということで井坂は関連会社会議の席で、坂倉に新構想を発表させた。坂倉が得意げに発表を終えたところで感想を求められた石井一博は苦笑いのなかで言った。顔は笑っていたが、石井の言葉は辛辣だった。

「普通じゃないですね。坂倉先生の計画は。300坪で20億? 坪当たり600万の売り上げ? 都会ならともかく、M県じゃうまくいったとしてもその半分でしょう」
「可能です。新しい試みに基づく高い目標を実行することこそ、今の我々に求められることです」

 坂倉は必死に抗弁した。

「それはそうだけど、人間1人あたりの仕事の量と能力は無限じゃないんですよ。スーパーマンならともかく、普通の人間じゃ生鮮食品を含んでのこの生産性は物理的に無理でしょう。しかも商圏シェアの数値が異常ですね。年間の食費支出額をそのまま世帯数にかけて売上を算定していますね。実績から見て、実際に獲得できるのは最大その3分の1です。つまり実際にはあなたの掲げる売り上げ計画の3分の1しか獲得できないということです」

 石井は実際の朱雀屋の生産性実績と商圏シェアを例に挙げながら続けた。実務知識と経験のない坂倉はその場では怒りで顔を赤くしながらも口ごもるしかなかった。

「朱雀屋の人間には無理かもしれませんが、私はやりぬきます」

 会議後の社長室で井坂に向かって坂倉は言い、井坂はその言葉を信じた。海外とベーカリーの失敗を挽回するには強力な失地回復策が要る。井坂には戻り道が無かった。

 坂倉が示した理想的な効率は現場事情を知らない井坂には新鮮に映った。自分の標榜する過去の否定という目線から見てもその提案は画期的に思えた。人は普通、厳しい現実より、明るく希望に満ちた明日に惹かれる。

 さらに、井坂が坂倉の構想を実行すると決めたのにはもう1つの理由があった。それは石井が嫌いだったからである。

 銀行の管理職が長かった井坂は他人からぞんざいに扱われることになれていなかった。口調こそ穏やかだったが、石井はいつも歯に衣を着せずに井坂に相対した。

 坂倉に対する遠慮会釈のない否定も井坂は自分に対するあてつけと受け取った。坂倉の計画にいささかの不安がないわけではなかったが、石井の言動に気持ちのなかで歯ぎしりをする思いが少なくなかった井坂は坂倉の計画を認めた。

(つづく)

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