経済小説『落日』(41)隠ぺい1
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谺 丈二 著
「なぜですか? そんなバカなことがありますか。私は仮にも担当部長ですよ。いくら特命といっても収支を隠すということなど許されませんよ」
M県事業の決算書を手に、関連会社担当部長の佐藤秀治は憮然として井坂に言った。
「しばらくは思い通りにさせておけ。創業だから赤字が出てあたりまえだ。それを公表すれば外野もうるさくなって坂倉もやりにくいだろう。犬飼がついているからそう心配するな」
「しかしですねえ」
「そのうちいい報告があるだろう」食い下がる佐藤を井坂はあっさりと退けた。
佐藤は以前、朱雀屋の経理部門に出向していたということで、井坂が杉本に頼んで現役支店長から半ば無理やり関連会社部長として再度朱雀屋に出向させた男だった。佐藤の出向には犬飼の進言もあった。佐藤は犬飼と同期で仲もよかった。
佐藤の心配は坂倉が進めているM県のスーパーマーケット事業だった。
「収支がまるで見えていないんです」
佐藤がM県事業の現場責任者の橋田武彦から相談を受けたのは事業開始から半年が経ってからだった。
「どういうことだ?」
橋田の話では商品の仕入れ原価も入荷量もはっきりしていないということだった。
「月次の実地棚卸をやっていない? 何を言っているんだ。事業開始からもう半年だぞ。そんなことあり得ないだろう」
「そうなんですよ。私たちもいささか不安になって坂倉先生にはっきりさせようと強く言っているんですが何せ無頓着で」
「それでは済まないだろう、コンピューターも仕入れのシステムも違うんだぞ。こっちじゃデータの取りようがないんだ。君たちがしっかりしなきゃどうしようもないじゃないか」佐藤はあきれたように電話の向こうに叫んだ。
「もちろんそうですが、あの人には井坂社長と犬飼取締役の後ろ盾がありますからね。過去の否定という看板のもとにやりたい放題ですよ」
何だ、それはと言いかけて佐藤は言葉を飲み込んだ。橋田としては精一杯やっているはずだ。しかし、彼のいう通り坂倉に2人がついている以上、どんなに橋田ががんばっても限度がある。
坂倉は強かだった。業績の不振を報告する代わりに、橋田ら朱雀屋から同行した営業幹部のだらしなさを頻繁に井坂に書き送っていた。彼らを教育して営業を軌道に乗せるにはもうしばらくかかるというのが坂倉の言い分だった。そんなM県の店舗だったが業績はともかくその拡大は順調に続いた。
「社長実は・・」
牧下が深刻な顔で社長室に入ってきたのはM県事業が始まって2年ほど経った1月も間もなく終わろうという寒い日だった。
「M県事業ですが、4億ぐらい出そうなんですよ」
「4億?」
「赤字です。小さくはありません。半年、3店舗で4億ですから」井坂の顔が曇った。
「申し訳ありませんが社長を降りていただきたいのですが」
新生朱雀屋を象徴する新しい事業の陣頭指揮を執るということで井坂はM県事業の新会社の社長を兼任していた。経営が軌道に乗り、上場というケースになれば少なからぬ上場益を手にしようという魂胆もそこにはあった。
「私が代わります。利益が出るにはもうしばらくかかりそうですから」
M県事業は経営という言葉からは程遠い無軌道ぶりだった。複数店舗を建設したものの、思ったような収益が上がらず、店舗運営に完全に自信を失った坂倉は新しく立てた店舗を丸ごと地元の小売企業に貸そうという手段まで考えていた。もはや限界だった。このまま坂倉に任せていたらそれこそ大変なことになる。
「だれかいい人間はいないか?」
あわてて牧下にバトンを渡したものの、牧下に何の力もないことを井坂はよく知っていた。実態の把握と事業の立て直しには有能な実務者が必要だった。
一方、牧下に期待した創業者朱雀の株券を中心とした私財の提供交渉もまったく進展していなかった。井坂にいわれるままに、牧下は一度だけ朱雀邸を訪ねてみたものの、財産を巻き上げるどころか朱雀から一喝されてほうほうの体で逃げ帰っていた。
「Eスーパーマーケットの武藤部長がいいでしょう。彼は財務にも明るいし、ここ数年石井と一緒に仕事をしていますから、営業でも使えますよ」
武藤というのは牧下にしては良い案だと井坂は思った。井坂は以前一度、関連会社幹部会で武藤と話したことがあった。その時、井坂が感じたのは牧下のいう通り数字に明るく営業にも造詣が深いということだった。
「仕方がないでしょう。たってのご要望とあれば。まあ、もったいない気もしますが、しかし、こんなときにはさすがに牧下専務、絶妙な人選ですね」
牧下の申し出を石井一博は皮肉を込めて受け入れた。石井にとっては武藤を抜かれることは、かなり手痛いが、関連子会社役員の人事権は子会社の社長ではなく、あくまで親会社が握っている。断ってもその意思が変わることはない。
(つづく)
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