経済小説『落日』(47)目の奥の不快3
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谺 丈二 著
井坂は改めて石井を見た。井坂に届くこの男の評判は、面白くないものばかりだった。勝手な言動と新生朱雀屋に批判的、というのがそのほとんどを占めている。井坂はなかなか自分になびかないこの男を、一度こっぴどくしめ上げてやろうと考えていた。たまたま本部内で石井を見かけた井坂はそんな思いもあって、秘書室の戸田に命じて石井を呼んだのだった。
ところが、顔を合わせるや否や石井は自分に噛みついてきた。確かに石井の指摘は図星だった。起死回生のつもりで仕掛けた新規事業はいずれもうまくいっていなかった。それどころか先行き改善が見えないほどの赤字を生み始めている。井坂にとってそれは計算外のことだった。既存事業も新規事業も今の井坂にとって「前門の虎、後門の狼」といってよかった。
確かに過去、関連会社の損失がもとで窮地に立った朱雀屋だった。しかし、井坂にとって、それはすべて朱雀剛三のワンマンが原因であり、衆知を集めれば同じ轍は踏まないというのが井坂の思いだった。頑張るという意識をあらゆる手段を通して明確に現場に伝え、幹部の行動管理をしっかりすれば事業は自然にうまくいく。井坂はそう考え、その思いを機会あるごとに訴えた。
『社長には汗だけで補えないことがあるのを理解していただかなくては』
あらゆるシーンで社員を督励する井坂に石井だけがいつもそう言った。そして、時間の経過とともにそれがだんだん現実味を帯びてきていた。井坂がいくら頑張りを訴えても、業績はまるで根が生えたように不振の位置から動かない。「石井君、評価は他人がするもんだ。君なりに頑張ってはいるんだろうが、君に対する幹部社員の評判は良くない」
しばらくの沈黙の後、言葉に窮して、井坂は吐き捨てるように言った
「は?そこに来ましたか。それは反省しなければいけませんね。でも、情緒的な批判に耳を傾けるつもりはありません。たいていの場合、評価は自分への忠誠と貢献で決まる場合が少なからずですから」
「どういう意味だ」
「悪党はだいたい、正義と忠義の仮面をつけ、本音より理想(うそ)を語りますからね。仮面を引っぺがさなくちゃ本当の顔は見えません」石井は思わせぶりな言い方をした。
「君はわしに人を見る目がないとでも言いたいのか」
「人間というのは本質的な能力の差はわずかです。必要なのは努力の強制一辺倒ではなく、スキルを含めた自己責任の持ち寄りと、多様な考え方を基にパートナーシップをどう育てるかでしょう。それが井坂社長のおっしゃる随処作主じゃないんですか?ただ、スローガンだけでは事態は変わりませんからね」石井は井坂の質問に直接答えず、軽い皮肉を交えるように言った。
会社のなかで一番気に入らない男から一番気にしていることを指摘されたことで、井坂は暗い気持ちになった。明確な用件もなく月並みな叱咤激励を考えて石井を呼んだことを井坂はひどく後悔した。考えてみれば井坂が社長就任そうそう、部長以上の社員に日付のない辞表を提出させたときも、唯一その提出を拒んだのが石井だった。
社長室に戻った後、不快感が渦巻くなかで井坂は石井の言葉を反芻した。無礼な石井が頭取の加藤と重なった。
田植えの季節だった。窓から見下ろす用水路に井坂の気持ちとは裏腹な透き通った豊かな水が流れていた。水路沿いの樹から鳥のさえずりが井坂の耳に届いたが、井坂はその鳥の名前を知らなかった。
(つづく)
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