経済小説『落日』(48)遅効性の毒
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谺 丈二 著
月例の幹部研修会を終えた石井一博は食堂で経営企画担当の若手役員、久保英二と自販機のカップコーヒーを前に長テーブルを挟んで話し込んでいた。久保とは10年ほど前、同じ事業部でバイヤーとして一緒に仕事をした間柄だった。知的な顔立ちの久保は以前からどんな時でも常に冷静で、的確な状況分析ができる男だった。年齢は石井より下だが、入社年次は中途入社の石井より古い。いわば年下の先輩である。冷静さに加えて、物事を深くとらえることができる有能な男で、1年ほど前に参与部長から取締役に就いていた。
「ところでM県事業を本体から切り離したよね。赤字が大きいの?」
「ええ、年間でみればおそらく10数億です。本体に抱えたままだと決算ができなくなります」
「いわゆる飛ばしか・・」
「そうですね。私もボードの一員ですから大っぴらにはいえないんですが」久保が沈痛な表情を浮かべた。
「気にしないことだね。下手に真実を語れば首が飛ぶ。サラリーマンの世界も勝てば官軍だからね。時機を見て改革を提案することだね。しかし、台所事情を無視してこれほど強引にことを進めるのは、ほかにも理由がるんじゃないかな」
「ほかの理由ですか?」
「うん、今グループの借り入れはどのくらいあるの?」
「そうですね、800億を軽く超えましたね。改めて考えてみれば、銀行もよく貸したものです」
「一応当社は一部上場企業だからね。付き合いも長いし、そんな取引先には融資金利は考えても回収そのものは真剣に考えないのが銀行だ。それでも、ここまで来ると実質債務超過だろう。今後の借り入れは厳しいね」
「そうです。すでに差し出す担保もありませんしね」「だからバラ色の夢というわけか」
「バラ色の夢?」
「そう。夢の担保だよ。1,000店舗、1兆円というのは借り入れの担保じゃないの」
「しかし、いくらなんでも」
「いや、いくらトップを始め、西総銀出身者が我が社のボードのほとんどを占めているといっても、ここまで来るとさすがに通常の融資は難しい。明らかに回収の見込が薄い当社への追加融資は半ば背信行為だからね」
「新しい事業計画は担保というわけですか」
「既存事業の利益改善が見込めないうえに担保に差し出す不動産もないとなれば新しい事業計画に融資するしかないだろう。それを本体の決算に流用する。いわゆる迂回融資だ。西総銀にとっては最後の賭けだろうね」
「最後?というとうちから手を引くということもあるってことですか」
「西総銀としては当社につぎ込むだけつぎ込んでいるからね。新規事業が手詰まりになったところで限界じゃないのかな」「しかし、メインが手を引くとなると」
「一昔前なら、協調融資の他行に遠慮して、下手なことはできなかっただろうが今はそんな気遣いも必要ないだろうからね」
「いざとなっても西総銀に大した影響はないということですか」
「MOF出身の加藤さんならほかの金融機関には融資は自己責任という建前を通せるからね」
「しかし、大口融資先のうちがおかしくなれば西総銀は再編の波にのまれる危険がないとはいえないでしょう」
「多少の可能性は残るかもしれないが、すでにしっかり“大蔵縄張り”の西総銀だ、普通に考えて他行は手が出せないだろう」「ということは西総銀では朱雀屋をどう処理するかのシナリオも具体的に出来上がっている?」
「井坂社長も薄々そう感じていると思うよ。社長にしてみれば今できることは、如何に銀行を丸め込んで金を引き出すかだろう。銀行の役員にしても当社に直接かかわった人間が少なくないだろう。破綻を先延ばしにすれば、彼らも自分たちの責任を先延ばしにできるしね。できる限り、何とかするんじゃないかな」
「井坂社長としてはそれを見越して行けるところまで行くってことですか?」
「少なくとも生きていれば何とかなるチャンスも生まれるというスタンスしかないだろうからね」「しばらくは何とか泳げますか?」
「メインバンクが融資を止めて上場会社を潰すという決断には、それなりの勇気がいるからね。我が社に深くかかわった西総銀の現役役員のことも考え併せれば、少しは時間的猶予もあるだろう。でもバブルと一緒でいつかは弾ける」
「やっぱりそう来ますか。ところで石井さん、またまた新会社の話ですが今度、直営のコンビニを立ち上げるんです」
「コンビニ?なにそれ?Kマートはどうなるの」
「関連とはいってももはや資本関係はありませんからね。潰すか乗っ取るかじゃないですか」
「簡単にいうね」
「でもそういうことになるんじゃないですか」Kマートというのは、かつて朱雀屋が経営していたコンビニエンスストアだった。井坂が社長に就任したとき、Kマートは朱雀剛三の弟、朱雀勝が社長をしていた。朱雀屋100%で年商150億の赤字企業だった。
社長の勝は創業者一族としてかなりの朱雀屋株をもっていた。井坂はその株とKマートの交換を思いついたのだった。
経営不振の関連会社を勝に押し付け、代わりに朱雀屋の株を取り上げようというのである。まさに一挙両得のやり方だった。しばらくの抵抗の後、朱雀勝は仕方なく井坂の提案を飲んだ。時の流れには逆らえないという感覚だった。ところが、朱雀屋の経営を離れた途端、Kマートは猛烈な勢いで経営改善をはたした。
大企業の後ろ盾がなくなったという危機感を労使が経営改善のエネルギーに変えたからだった。井坂にとってはまさに計算外のことだった。
朱雀屋から朱雀勝に資本提携がもちかけられたのはそれから間もなくだった。しかも出資比率は50%。さすがに勝はこの提案をはねつけた。
お荷物会社を強引に押し付け、しかも利益が出たらそれをよこせという提案に勝が納得するはずがなかった。
「最後は15%にまで比率を落としたんですがね。それでも勝社長が首を縦に振らなかったからコンビニの新会社を興すっていうわけです」
「ノウハウはどうするの?Kマート社員は全員転籍で朱雀屋の社員じゃないんだ」
「そこはぬかりなくスカウトで対処することになっています」
「スカウト?」
「ええ、聞いた話では営業幹部とフィールドカウンセラーの半分をスターから引き抜くそうです。それに、コンピューターシステムを取り上げます」Kマートは朱雀屋のホストコンピューターを使っていた。もちろん、使用料を払ってのことだった。ホストコンピューターをカットされたうえ、幹部の大量引き抜き。もし、そんな手を実際に使われたらKマートとしては打つ手がなくなる。朱雀勝としては買いたたかれるにしてもスターの株式を手放すしかない。
「担保としてみれば絶好の新規事業か。よくやるね、井坂社長も」
苦笑いのなかで石井は感心するように苦く笑った。
(つづく)
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