自然災害は日本人の宿命(前)~関東大震災
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拓殖大学地方政治行政研究所客員教授 濱口 和久 氏
首都・東京を壊滅させた大震災
現代に生きる日本人が「大震災」と聞いて連想するのは、記憶に新しいところで平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災となるだろう。それ以前となれば、少しさかのぼって、平成7(1995)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災といったところではないだろうか。それ以前にも度々、自然災害は日本を襲ってきた。日本人は、自然災害から逃れられない運命にある。
大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災は、平成の2つの「大震災」よりも多くの人的被害をもたらした。すでに92年前の出来事となっており、当時のことを知る日本人がほとんどいなくなったことで語られる機会も減り、直近の2つの「大震災」に比べて印象が薄まっているようだ。だが、日本の自然災害史上最大の犠牲者を出したという事実は今も変わっていない。
9月1日午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80キロを震源とするマグニチュード8級の海溝型地震が発生した。揺れは、関東地方だけでなく、北は北海道南部から、南は九州北部にいたるまで、広範囲で感じられた。しかも、一度だけでなく、マグニチュード7クラスの余震が連続して起きた。相模湾から房総半島沿岸部では、波高10メートル以上の津波が発生している。
この関東大震災による被害は、以下のようなものとなっている。
東京都、神奈川県を中心に死者・行方不明者が10万5,000人以上、そのうちの9万人以上が火災による焼死者であった。建物被害は全壊が10万9,000戸、半壊が10万2,000戸、全焼が21万2,000戸にのぼる。東京における出火は合計160カ所で、その半数は早期に消火されたが、木造家屋が密集する下町地区はまさに「火の海」のような様相を呈し、完全に鎮火するまで約40時間も燃え続けたとされている。
内務省、大蔵省、外務省などの官公庁の建物も大きな被害を受けた。帝国劇場、三越日本橋本店などの文化・商業施設の多くが焼失した。また、浅草にあった大正ロマンの象徴として人々に親しまれていた「凌雲閣(通称:浅草12階)」が8階の床上部分から折れ、崩壊したことは、関東大震災の揺れの凄まじさを伝えるエピソードとして有名である。
東京における火災による被害の特徴として、同じ場所で100人以上が火災によって死亡した箇所が実に10カ所もあったということがあげられる。そのなかでも東京市本所区(現・隅田区横綱)にあった陸軍被服廠跡では、避難してきた約3万8,000人が亡くなるという大惨事となった。
一方、神奈川県内では、地震による強烈な揺れにより、箱根、丹沢を中心に多くの土砂災害が発生した。熱海線(現・東海道本線)の根府駅では、プラットホームに進入してきた列車が激震によって宙に浮き、40メートル下の海岸に落下。それと同時に裏山一帯が崩れ、駅舎が海中に没し、多くの犠牲者を出した。その後、熱海線が完全復旧するまでに1年半の時間を要した。
(つづく)
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