123便墜落重大新事実の闇
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NetIB-NEWSでは、政治経済学者の植草一秀氏のメルマガ記事を抜粋して紹介する。今回は「日航機123便の墜落から39年が経過するいま、墜落の真相を明らかにすることは日本国民の責務である」と訴えた8月9日付の記事を紹介する。
1985年8月12日18時56分、JAL123便は群馬県上野村高天原山尾根付近に墜落した。
乗員乗客524名のうち、520名が犠牲になった。520名のなかに懐妊した女性が1人おり、胎児も含めれば犠牲者は521人。4名の乗員乗客が救出された。救出されたJAL客室乗務員(当時)の落合由美さんが123便墜落直後の状況を証言した。「墜落の直後に、『はあはあ』という荒い息遣いが聞こえました。1人ではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。『おかあさーん』と呼ぶ男の子の声もしました。」
墜落直後には多数の生存者が存在したことを当時のJAL客室乗務員の落合さんが生々しく証言した。しかし、政府の事故調査報告書はまったく異なる記述を示した。
「救出された4名以外の者は即死もしくはそれに近い状況であった」政府事故調査報告書を記述したのは現場にいなかった者。事故機に搭乗し、自らの体験を事故直後に述べた落合さんの証言と、現場にいなかった者が書いた政府の事故調査報告書の記述のどちらが事実に即するものといえるか。
自衛隊による救助活動が開始されたのは墜落から13時間も経過した翌朝の午前8時以降だったが、墜落現場は墜落直後に米軍と自衛隊によって確認されている。
米軍機が墜落直後に墜落現場を確認した。そして、直ちに救助活動を試みたが米軍横田基地が帰還を命令した。米軍機は自衛隊機が現場に到着したのを確認したうえで現場を去った。
墜落から約2時間後の12日午後9時過ぎに自衛隊機が現場に到着して墜落現場を確認した。それにもかかわらず、救助活動は翌13日の午前8時以降まで実行されなかった。
群馬県の地方紙である上毛新聞は8月12日付号外で墜落地点が群馬県上野村であることを明記している。
墜落直後に墜落現場は正確に特定されていた。不可思議であるのは翌朝まで墜落現場を特定できないとのメディア報道がなされたこと。墜落現場を特定できなかったから救助活動が遅れたとされた。
ところが、実際には墜落直後に米軍機が墜落現場を現地で確認し、午後9時には自衛隊機が墜落現場に到着していた。墜落直後には多数の乗客が生存していたとJAL客室乗務員の落合さんが証言している。墜落直後から救助活動が実行されていたなら、多数の乗客・乗員が救出された可能性が高いと考えられる。
墜落直後に米軍機が墜落現場を特定したことを、墜落現場を確認した米軍パイロット本人が明らかにした。
※続きは8月9日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」「123便墜落重大新事実の闇」で。
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