海外戦略決断シリーズ(1)進出決断・3つの実例

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 福岡、九州、日本市場の限界がみえてきても、そう簡単に海外へ飛び出すことはできない。トコトン追い込まれないと動きを取れないのが現実だ。
 長年にわたって中小企業の海外進出を目撃してきた。1990年以降、デフレ状態となり「中国へ進出しないと会社の存続ができなくなる」という「中国進出詣で」が起きた。例えば大川市の木工関係企業群が上海周辺で工場を建設したが成功した企業は1社のみであった。そして、この2~3年でインドが注目されだした。おそらく今年は中小企業にとっての「インド詣で元年」となるだろう。

インド進出の元祖・福岡金網工業

 13年前のことだったか。2012年当時、公共事業が減り、単価が厳しい経営環境であった。コンクリート二次製品を加工する福岡金網工業(株)(本社:福岡市博多区吉塚)の山本健重社長(最近、故人となられた)は深刻な顔つきで「コダマさん、この状態であれば弊社は3年で倒れてしまう」と告白された。「何か打開策があるのですか?」と尋ねたところ「今度、インド経済視察団で視察に行ってくる」と打ち明けてくれた。筆者は「いまインド?」と訝った。
 この福岡金網工業は18年にインド西部地区に工場を立ち上げた。そこまでは耳にしていたが、経緯についての詳細を定期的には聞いていなかった。
 今回、同社の3代目社長である山本崇裕氏に取材を依頼した(詳細は別途、記事にしてアップする)。結論から言えば7年を迎えたインドでの業績は、日本での売上6億円を超える勢いであるとか(日本での販売額に換算すると10億円相当)。工場長にはインド人を抜擢しており、日本人幹部1人がトータルマネジメントを担っているだけなのである。崇裕社長は「インド進出を決断していなかったらつぶれていた」と本音を語る。おそらく福岡金網工業は「インド進出の元祖」と高い評価を受けるであろう。

マニラでの戸建供給実績1,000戸

 N氏が「日本の住宅市場には限界がある」と先を読んだのは12年前のことである。地元大手企業の子会社である住宅会社の社長に抜擢されたのである。N氏は「どういう市場に活路を見いだすか」を必死で模索した。結果、「アジア進出しかない」という結論に至り、リサーチのために飛び回った。ターゲットをインドネシア、ベトナム、フィリピンの3カ国に絞り、結局は交通時間が3時間という便利さを優先してフィリピンに決めた。
 N氏は10年間、社長としての手腕を発揮。マニラ周辺で1,000戸の建売住宅を供給した。もちろん、フィリピンでは単独の事業はできない。地元企業とのJV事業だ。
 このフィリピンの住宅事業の将来性を見越して西日本鉄道も進出している。「100億円、いや200億円投資した」とも囁かれている。筆者も現場=建売現場を視察したが、かなり広範囲な造成地域であった。
 N氏にビジネス人生最大の決断が迫られた。親会社から「海外不動産には投資しない」という通告を受けたのである。要するに「この方針に従わなければ辞めろ」ということだ。N氏の頭にはフィリピン住宅事業しかなく、結局24年7月に退社した。その後の動きは余りにも迅速である。マニラの財閥との会社を立ち上げ、福岡での投資企業を募った。昨年11月には450戸の建売用地を確保した。1月末時点で40%契約が決まったという。迅速な決断、実行をし、結果を出した。大したものだ。

水供給業者の経営者S氏の割り切り

 S社長から「日本ではある程度のシェアを確保したが、もう頭打ちだ。海外市場の開拓に注力したい」と相談があったのは昨年6月のことだった。
先だって、経済視察団の一員としてインドに飲料水の現状についての視察に行ったそうだ。さらにベトナムの現地視察にも行ってきたそうだ。「市場は豊かであるが、行政・政府が絡んでくるから難しい一面はある」と漏らしていた。
N社長を連れてS社長の会社へ訪問した時のこと、海外事業を巡って大いに話が弾んだ。正面からS氏の顔を直視したところ「海外事業こそが我が社の飛躍の道だ」という信念を持った顔付きになっていたので安心した。N氏をS氏に紹介した動機は「フィリピン開拓の際にはN氏の人脈を活用してくれ」ということだった。ところがN氏が提示した現場設計書をみたら造成現場だった。
 前記の造成中450戸の現場である。「関心があれば私のところの現場も検討していただきたい」というものだった。「現場の実績があれば、マニラへの食い込みは容易になりますよ」という親切心からきた提案だったのだ。
 大まかではあるが、海外市場開拓に挑んでいる経営者3氏について紹介した。やはりタダ者ではない。こちらも非常に刺激を受けて、発奮することができた。 

(つづく)

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